セ・リーグDH制導入議論について〜「理想の野球」から考える〜
繰り返されるDH導入議論
昨日のセ・リーグ理事会で巨人が指名打者制導入を持ち出してきたらしい。
まあ、そうくるだろうと思っていた。もともと原辰徳監督はDH導入推進派だ。そこへきて先月のあの日本シリーズである。「球界の盟主」を自認する巨人としては、セ・パの実力差の原因のひとつと囁かれてきたDH制について、その導入をここで言い出さない訳にはいかないだろう。
さて、巨人さんの事情はさておき、果たしてセ・リーグはDH制を導入すべきなのだろうか?
DH導入賛成派の意見は概ね次のようなものだ。
・打線において投手はほぼ戦力としてみなされておらず、凡退か三振が当たり前とされている。
・このような「無駄な」時間、プレーを観るのは観戦者の立場からして退屈、苦痛でしかない
・また、投手の存在により打線に切れ目が生じることからチームの打力が弱まるだけにとどまらず、投手のレベル低下、ひいてはセ・リーグの野球そのものの弱体化を招いている
一方、DH導入反対派の意見は次のようなものだ。
・野球という競技は9人の選手全員がそれぞれ「守り、投げて、打って、走る」スポーツである。投手が打席に立たないのは野球本来のあり方ではない
・打力を期待できない投手という存在が打線にいることから、犠打や代打の使いどころ、投手交代のタイミングといった戦略、駆け引きの面白さや、パワーだけに頼らない緻密な野球が生まれる
このように、賛成派、反対派ともに立場・意見は違えど、その主張は「野球というスポーツが魅力的でハイレベルなものであり続けて欲しい」という願いから発するものであろう(冒頭で挙げた、自らが常に球界のトップに君臨しなければならないという、一部球団が抱える事情のようなものもあるにはあるが)。
こうした議論が今に始まったのではなく、1975年パ・リーグにDH制が導入されて以来、幾度となく交わされてきたことは、多くのプロ野球ファンにとって周知のところである。
セ・リーグの野球は「守り、投げて、打って、走る」野球か?
さて、ここで筆者は上に挙げたDH反対派意見の1つである、「野球というのは9人の選手がそれぞれ「守り、投げて、打って、走る」スポーツである」という論理について、もう少し深く考えたいと思う。
DH制が導入されていない現在のセ・リーグでは、たしかに投手は打線の一員として打席に立つ。しかし、先にも書いたように多くの場合、投手はただ立ったまま三振を待つか、せいぜい送りバントで、もしスイングするケースでも9割方は凡打と決まっている。誰もがそれが当然であり、そうならざるを得ないと考えている。
しかし、これを果たして、9人が「守り、投げて、打って、走る」野球といえるだろうか? 自信を持ってそうである、と言える人は少ないのではないだろうか。
セ・リーグの野球は「緻密な野球」?
次に、同じく上に挙げた「打力を期待できない投手がいることによって生まれる戦略上の駆け引きの面白さ」という意見について考えてみたい。
投手が打力においてほとんど期待できず、またそれが当然でありやむを得ないという状況は、言うまでもなく現代プロ野球の高度な分業制によって生じたものだ。要するに、投手はピッチングの練習にほとんどの時間を費やすため、打撃練習は最小限にとどまるか、全く放棄せざるを得ないというわけだ。
投手がより高度なピッチングをするために「打てない(打たない)バッター」となり、それをカバーするために戦略の構築や駆け引きを行う。
これは果たして「緻密な野球」なのだろうか? むしろ大いなる「顚倒」とも考えられるのではないだろうか?
「理想の野球選手」
そもそも、投手に打力を期待できないことをやむなしとする野球は、野球界全体からすれば極めて特殊なものである。
わざわざ確認するまでもなく、少年野球においては「エース」が「四番」というのが昔からの相場であるし、それは全国トップクラスの高校球児が死闘を繰り広げる甲子園大会でも概ね変わりはない。
また、職業野球の世界においても、古くはメジャーリーグのベーブ・ルース氏、日本では川上哲治氏のような投手にして名打者であった選手に代表されるように、投手が打線の一部として(単なる頭数ではなく)プレーしていた時代があった。
しかし、時代が進むにつれ、野球がより「洗練」されてくると、もはや投手は、打者としての役割を果たす余裕がなくなり「ピッチングの専門家」としての投手が生まれることになったのだ。
これはなにも投手に限った話ではない。ベーブ・ルースや川上哲治の時代がはるか遠くになった現在、プロ野球選手の分業化は(大谷翔平という未知数の例外をのぞいて)進む一方である。
例えば一塁手は、大雑把に言って「打撃の専門家」の指定席とされている。また、外野手においても、外国人選手などの場合「守備は目をつぶる」ことを前提に起用されることが多い。
賛否はあろうが、このような現代野球は、9人の選手が「守り、投げて、打って、走る」という「ベースボール」とは、もはや親戚関係にある別のスポーツといっても言い過ぎではないだろう。
もちろん、こうした分業化により、打撃の面で多少劣っていても、小坂誠のような「守備のスペシャリスト」、また鈴木尚広のような「走塁のスペシャリスト」に代表されるような、一芸に秀でた野手が活躍する場ができたことは確かだろう。投手にしても、クローザー、セットアッパー、ワンポイントリリーフなど、選手の個性や年齢に応じて活躍の場を見出す余地が生まれた。
しかし、翻ってここで本記事の論題、「DH制導入の是非」についていえば、その前提として筆者はやはり、
「9人の選手が――それこそ泥んこになりながら――ボールをグラブで捕り、投げ、バットで打ち、そして走る野球が観たい!」
と思う。そうだとすれば、これまで書いてきてきたことからわかるように、指名打者の導入是非は、単に投手が打席に立つか立たないか、という問題を超えて議論されるべき問題だと考える。
このような論が多分に理想論であることは承知している。しかし、我々は大谷翔平という選手の存在を知っている。彼は今、洗練に洗練を重ねた、一部の隙もないような現代野球の中で、異端児として、そして――こういってよければ――「野球原理主義者」として戦っている。
当初、大谷選手の二刀流について、大半の評論家やOBが否定的な意見を浴びせた中、あの落合博満が「私は大賛成」「やりたいようにやらせてみたらいいじゃん」と語ったとき、氏は三度の三冠王に代表される数々の偉業を達成した自身すらなれなかった、そして、ならせてもらえなかった「理想の野球選手」像を大谷選手に託していたのではないか――そのようにも筆者には思えるのである。