孤独の色
カウンターの上にある自分が飲みかけにしていたグラスの中身を流しに捨てて、グラス用のスポンジでサッと洗う。いつおろしたものかも覚えていないのにまだまだ使えそうだな。
夜中3時、今日はお客さんが誰も来なかった。なかなか気持ちは切り替わらないが、家に帰って少し寝て、アルバイトに向かうのだ。いつもはうるさい隣のバーも今日は静かそうだった。
家までは徒歩45分。朝は8時起き。9時から15時までアルバイトをして19時から夜中の3時まで自分のバーを開ける。そしてまた家に帰って8時に起きて……の繰り返し。それでも平気だった。理由は、私に守りたいものがあったからだ。
特に何か盗まれて困るものがない店の戸締りをし、いつもの道のりを歩いて帰る。西新宿を抜けて細い道を通り、公園の横を通って中野の方へ。暑い日も寒い日も、雨の日も雪の日も毎日毎日45分、それも仕事のうちだというように歩いた。
途中にあった古めかしい街並みの辺り一体が買収され、都内で一番大きいマンションが建つらしい。こんな不便なとこ、誰が住むんだよ。心の中でせせら笑う自分がとてもちっぽけに感じた。ただその街並みが好きだっただけだ。
山手通りまで出るとタクシーが集まるガソリンスタンドの行列が長く伸びていた。
ふと、近くのマンションのベランダあたりからせっけんの香りが鼻に触れる。洗濯物を取り込み忘れたか、靴を洗って干しているか、そんな想像をする。せっけんはいいな。優しくて、清潔で、暖かい香り。孤独じゃない匂い。自分まで綺麗になった気がした。ここを越えればもうすぐだ。
コンビニで、起きてから食べるパンを買う。ここももうじき閉じてしまうらしい。守り切れなくなったのか。その気持ちは痛いほどわかる。重圧は足にくる。腰にくる。持てなくなったら、下に溜まる。埋まる。沈む。そうなったらもうおしまいだろう。
ようやく家に着く頃には少しだけ空が明るくなる季節だった。
パタン パタン パタン パタン
何やら音がする。一番最後の角を曲がると、私が住むアパートの郵便受けにすごいスピードでチラシを入れている男がいた。
パタン パタン パタン
途中で私がいることに気付き目が合い、サッと身を整えて途中でやめたままどこかへ行ってしまった。鮮やかな手つきと身のこなし、郵便受けの下に置かれたチラシ用のゴミ入れを見ていないはずはなし、迷惑だと分かっていながらもその仕事をやめられないという意地と根性とプライドを感じた。立派だな、と思った。そして、私はそれとは違うなとすぐに思った。
部屋に戻り、買って来たパンや荷物を下ろして早々にベッドに潜る。明日はお客さん来るといいな。ああ寂しい。死にたい。もう死にたいよ。
……でも、そうか。今死んだら最後に会ったのはあのポストマンなのか。バカみたい。
しょうがないから明日も生きてみるか。おやすみ、私。
(Ablation収録/夜明けの青)