姫金魚
待ち合わせは午後過ぎ、15時。我が家には何度か来たことがあるから道順もわかるだろう。まだ少し時間があるから駅前のスーパーに行ってお茶請けでも買いに行こう。今日は大事な話があると言ってあいつを呼び出した。
東京に出てきてもう何年経っただろうか。仲がいいと言えるような友達はほぼいない。あいつだけが俺の友達で、そして俺の好きな人だ。昔の職場で一緒で、一つ年上の同期だった。
信号待ちで見上げた空にはたくさんの電線が、まるで蜘蛛の巣のように走っていた。俺はもうここから抜け出せないのかもしれないな。東京の空はそんなことまで教えてくれる。
いつもは散らかったままのテーブルを片付けてあいつの到着を待つ。どう切り出すべきか。はたまた自分があいつとどうなりたいのかすら分からずにいる。それでも今は「自分の気持ちを伝える」ということをしたいと思ったのだ。その欲求から逃げ切ることがどうしてもできなかった。
15時少し前にチャイムが鳴った。玄関であいつを迎える。ちょうど西陽が背後から差していた。
「お待たせ。お邪魔します」
靴を脱いで揃えている姿を見ながら、まだ何から話そうかと考えていた。怖気付いた自分の姿しか想像ができない。
コーヒーが飲めないのは知っていたので何も聞かずに紅茶を、俺とあいつの2杯分淹れる。お茶請けも適当に出して向かい合って座った。
「で、大事な話だっけ?」
心の準備もないままにいきなり切り出してきたのは向こうの方からだった。そ、そうなんだけどさ。いつものように怖気付きそうになってはぐらかしてしまう。でも今日は伝えようと決めたのだ。
何を話したか、何から話したか全然覚えていないが、勢いづいて話していて、気付いたらあいつは深刻そうな顔をしていた。
「自分は、そうじゃないから」
ポツンと言った。それからあいつはいつものあいつに戻って「風呂でも行こうよ」と言い出した。何がどうなったのかわからず、頭が真っ白のままOKしてしまった。
気付いたらもう17時を回っていた。俺の車で途中どこかに寄って夕飯を済ませ、少し遠いところにあるスーパー銭湯に行こうということになった。
車中も食事中も、少しずつさっきの言葉を受け入れながら他愛のない話をした。フラれたわけではない。嫌がられたわけでもない。ただ受け入れられなかった、それだけの話だった。
浴場内では少し落ち着く時間が欲しくてあいつを避けてしまった。外に出て牛乳を飲んでいたら「どこいたんだよ?」と無邪気に笑いかけてくる。無神経なやつめ。お前のそういうところが好きなのだ。
郊外にあるため、暗い夜道が続く。しばらく走って、少し遠回りになるが家まで送り届けるつもりでいたため、大まかな住所は知っていたものの詳細を聞こうと話しかけたら、さっきまでなんだかんだと言っていたあいつは助手席で軽くいびきをかき始めていた。
住所がわからないなら送れないな。どうしようか、一度家に帰ろうか?
……いや、今だろ。誰もいないところまで連れて行っちゃえよ。攫っちゃえよ!誰もいないところに閉じ込めてしまえ!!
自分の心に生温い風が吹いた。それはそれは恐ろしい、何もかもを邪悪にする瘴気のような風だ。俺は大きくハンドルを切った。
「あれ、もしかして寝てた?」
あいつから聞いていたおおまかな住所から一番近い最寄駅に着く頃だった。本当は隣駅ということだ。悪いからと、ここから歩いて帰ると言う。
「今日はありがとう!またな」
助手席側の窓を開けて最後の話をした。そう、もうわかってるんだ。
「うん、さよなら」
窓を閉める。その間中、何も気にしていない様子であいつは少し大袈裟なぐらい手を振っていた。
そうだ、それでも絶対、俺には君がいなきゃダメなんだ。
もうわかってるんだ、それでも絶対、さよならをした方がいいんだって。
俺は君を幸せにできないんだ。
綺麗に手入れされている紫がかった姫金魚草が道の端っこで揺れている。明日はどこかに飲みに出てみよう。
(Ablation収録/りなりあ)
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