役に立たない研究は今すぐ滅ぶべきである

私は「役に立たない」研究の代表である理学部出身ですし、文学部の研究も好きです。

しかし、研究をAIに移した中で「役に立たない」研究についての発表を見ているとものすごく嫌悪感とイライラ感を感じるようになりました。

それは民間企業の論理にどっぷりつかってしまって「役に立たない研究」への「無駄さ」を感じたからではありません。私が学んでいた物理学も大して役に立ちませんが、それとはどこか異なる「研究の無意味さ」とそれを「誇る人々の愚かしさ」にイライラさせられる。

私自身のイライラ感を分析してみて、改めて研究において「役に立つ」とはどういう意味なのかというのを考えていきます。

AIと物理の役に立たたなさの違い

物理学も役に立たない学問ですし、AIの基礎研究も直接社会の役には立ちません。

しかし、やっている本人からしたら大きな違いがあります。それは「結果の有用性」です。

例えば素粒子物理で大発見したところでなんの役にも立ちません笑
ニュートリノに質量があることがわかって何か生活に大きな変化はあったでしょうか笑?
一方でAIはどうでしょう?その研究によって社会は大きく変化しました。その意味においてどれだけ頑張っても「社会になんの影響もない」分野と頑張れば「なんらかの効果のある」分野があるのです。

文学や理学は前者、医学、工学、経済などなどは後者に該当します。

もちろん医学や経済でも基礎理論、例えば「ゲーム理論の理論構築」とか「マルクス主義思想の発展」のようなテーマであれば、前者になりますが「〇〇の時のゲーム理論を用いた〇〇分析」みたいな「適応しました」的研究は後者になります。

前者は例えどんなに小さなことでも「人類が得た知識に一つ付け加えられるような汎用的で恒久的な知見」であればその研究には価値がある。
一方でAIや医学、工学については「役に立つ」ことが究極目標です。何故ならば医学や工学は常に「恒久的な知見ではない」からで、その知見は人類の知識ではなく「人類の営み」への貢献で測っているからです。

50年前も今でも量子力学は変わらないですが、50年前と現在でがん治療なんてめちゃくちゃ違います。

つまり「人類の知識」に貢献するような研究は「人類の営み」には貢献しない。これが理学系のいう「役に立たない」です。

一方で工学系では「人類の営み」に貢献しない研究でも「知識」を増やすものであれば良いですが、そうでない場合が多い。そうするとこの時の「役に立たない」は単に「無価値」です。

これが、物理とAIの「役に立たない」の違いです。

こういうと常に「じゃあル・カンやベンジオはどうなのか?」という反論があります。そりゃもちろん「彼らは社会の役に立とうと思って研究してない」というのが答えです。

では彼らを否定するかというとそうではありません。なぜなら彼らの研究の目的は彼らがいたコミュニティ=計算機科学の一分野(脳の計算機モデルの構築)についてだからです。ベンジオたちは「脳の計算機モデルの構築」という目標に対して研究を行っており、それ自体は究極的に「脳の理解や計算機の可能性の開拓」という異なる目標(つまり科学的な視点)を抱いているからです。

このあたりは論文のイントロをみたらわかりますが、どのようなモチベーションでやっているのかがでその論文の価値観がわかるものです。

さて、今研究者でこの記事を読んでいる方に質問です。あなたは何を目標として研究をしていますか?あなたの研究はその目標に対してどのような形で貢献していると考えていますか?

どんな研究も結局のところ「役に立つか」で評価される

私が物理をやっていた頃は目標は常に明確でした。
「〇〇の現象をみたい」、「〇〇の現象を理解したい」であり、そのために「〇〇を見るための技術」を開発したり、「〇〇のアイディアを拡張」したり、「理論を作ったり」していました。

評価は「目的の合理性」であり、「目標達成に如何に近づいたか?」で評価します。 

例えば以下の論文を見てみましょう。

専門でないのでアブストで分かる範囲ですが、目的は「超伝導でのダイオードを作りたい」というのがある。そしてその整流効果に渦が重要みたいで、その渦をコントロールする最適パターンやパターンと整流効果の関係性を調べましたという内容です。

まずダイオード効果を超伝導と渦との関係で実現することに「社会的なインパクト」はない笑。しかし「超伝導の整流効果」については科学としては「既存のダイオードとは別の仕組みで整流効果を作ることができる」というのは面白い。その意味において間違いなくあらたな知見が増えた。

さて、この論文が引用されるのはどういうときかというと他の人が「超伝導でダイオード作りたい」という場面、もしくは「渦と超伝導の関係性」について知りたいという場合かと思われます。その際に既存の知見として、手法として引用される。つまりは他の人の活動にとって「有用である」場合に引用されます。

すると「引用数」というのはある意味で「その研究分野での有用性」のバロメーターとも言えるわけです。引用数の大小は主に「活動している分野の人口」に依存しているにすぎない。

その意味において、例え直接社会の役に立たない分野においてすら「研究は常に役に立つため」に存在していると言えますし、それを重視して研究している。

個人を批難するつもりは全くありませんがあくまでよくある研究の一例としてこの論文を上げてみましょう。この論文に限らず日本にはこのような論文で溢れかえっています。

Matsui, Tetsuya, Yamada, Seiji (2023-04). A design of trip recommendation robot agents with opinions. Multimedia Tools and Applications, https://doi.org/10.1007/s11042-023-14747-w [IF = 2.577]

内容は「旅行推薦のためのエージェント」についてどのような見た目が良いか実験して「ロボット風が一番良かった」という結果を報告しています。

この研究室ではHAI (Human-Agent Interaction)に興味があるようですが、この論文はどの様に捉えるのか?

もし、「HAI」に興味があるとするならば、この実験によって「人間とエージェントの関係について」どのような知見が増えたのか?まさか「ロボット風が良い」というのが知見と言わないですよね笑?
なぜロボット風が良いのか、その条件は?という議論はあるのでしょうか?

もし、「旅行推薦における自動化と省人化」が目的ならば本当にこのロボットで可能なのか?そもそもなぜロボットでないと行けないのか?その他と比較してどのようなメリットがあるのか?

この論文はHAIへの貢献も社会への貢献も不明瞭です。
科学的な目標も社会的な目標もそれを達成する意志もない、ただ手持ちの技術から可能な「論文」を生産しているに過ぎません。

ちなみにこれでも東工大の研究室、つまり日本でもトップレベルの研究室でも一部でこんな感じです笑
ということは日本の研究のレベルは推して知るべしという感じです。。。

諸悪の根源のたち

この記事を書いていてふと、この手の「役に立たない」研究の大ボスに当たる人を思い出しました。

その名も寺田寅彦です。

多くの人はその随筆を読んだことがあると思いますし私も読みました。ひそかにあこがれている研究者はおそらく多くいると思います。
寺田寅彦は俳句が好きだったこともあり、身近な対象を物理的に分析する「趣味の物理」を行いました。

また、少し時代が下るとロゲルギストという集団が日常生活を対象にした物理随筆を書いていました。

「身近な自然現象を科学的に語る」というのはキャッチーですし、科学啓蒙や科学的に解明されていない現象を新たにモデル化するのは価値がある(昨今はそういう現象も少なくなりましたが)。

この「趣味の物理」は私も志した時期もありましたが(今でいう複雑系や非線形科学と言われる分野です)、「結局何がしたいんだ?」という部分が引っかかり、だんだんと普通の物理によって行きましたし、多分多くの物理屋は同じ印象を持ちます。

ロゲルギストの中の人たちも「日常の物理」が専門なわけではなく、それぞれの分野で立派な研究をされた方たちです。

一方でこういった「啓蒙書からのイメージ」を「真に受けた」人への影響は絶大です。私自身もそういうイメージで研究者になりたいと思っていた時期もありましたし、「とるに足らないことが研究になる」、「些細な好奇心に価値がある」という印象を持たせてしまう。

現に「○○をやってみた」という科学系?Youtuberがわんさかいる程度には、ちょっとした好奇心と「頭の良いことをしている」という自尊心を満たせ「それが万人にウケる」という価値を持たせる錯覚を持ってしまう。

しかし、これらの好奇心はよほどセンスが無い限り科学的な目線ではすでに分かり切ったものが多く、素人科学であることは否めません。
例えばメントスコーラの現象自体はすでに化学式もその流体的な仕組みもわかっています。そこは「化学」の啓蒙としては価値があるかもしれません。

一方で、そのメントスコーラを題材に「風呂でメントスコーラをする」だったり「連結してロケットを飛ばす」みたいな動画はありますが、「メントスコーラ」という現象そのものに対しては何の影響ももたらしませんし、新たな知見もない。単に金がかかって、見栄えと「過程」を見るのが楽しいだけです。

ちなみにこの寺田寅彦は東大の教授でした。この「趣味の物理」は良くも悪くも東大に影響を及ぼしましたが、今もその影響を大きく及ぼしているのかもしれません。

「役に立たない」という免罪符

物理の研究者は多くの場合「役に立たないことの重要性」を語りますし、多くの研究者も「役に立たない研究」を肯定的に捉えます。

しかし、そこには「結果の有用性」という大きな違いがある。「役に立たない=価値がない」ではない。物理の研究は役に立たないが価値は誰かにとってはあります。

私の出身研究分野では「役に立たないけど面白いでしょ?」というモチベーションで研究を肯定してましたし、それが説得力を持っていました。つまり「面白い」という価値があるのです。
ではアドバイザーロボットのどこに面白みがあるのか?ロボットというのはありきたりですし、ロボット型と人型の違い自体は面白くもなんともありません。知的好奇心がくすぐられるわけでも、社会的に新たなイメージを起こすわけでもない。その意味において「無価値」と言ってもよい。

そして、これが社会に出た博士が嫌われる一面でもあります(特に工学系)。
ビジネスは「価値」を提供するために存在しているわけなので、博士へは常に「価値」を生み出す力に期待を(本来は)しているわけなんですが、こんな感じの研究が常態化しているので、多くの場合「無価値なもの」を生み出すことしかできない。
そして当の本人はその無価値を生み出すことに誇りを持っていたりするので方向転換もさせられないし、無価値だしで会社にとってごくつぶしの何者でもない。

取ってつけたように役に立ちそうなことを並べて無意味なことをする研究と理学的な「役に立たない」研究をいっしょくたにしては行けない。そしてある意味反省ですが、「役に立たない」を「研究の口実」にしては行けない。でないと本当に役に立たない研究を肯定してしまう。逆に「役に立つ」をもっと主張していかないと行けない。

だから私はあえて言いましょう。「あなたの研究はなんの役に立つのですか?」「何をしたくて研究しているのですか?」と。


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