Z世代における信仰
私の思想書読みのきっかけ
皆さん山岳ベース事件、あさま山荘事件を知っていますでしょうか?
未だにテレビでの最高視聴率等で話題にはなりますが、その程度の理解しかない方も多いと思います。
今の世代の人には理解できないかもしれませんが、全盛期の「左翼活動」は今以上にカジュアルでした。
東大の安田講堂事件の逮捕者が450人ですので(必ずしも東大生だけでもないし、東大全共闘全員が逮捕されたわけでもない)、シンパも含めると大体500~1000人くらいが左翼活動に肯定的でした。東大の在学者が12000人くらいですので、つまり10人に一人くらいは”左翼”活動をしていたわけです。
イメージとしては「テニサー」くらいにはポピュラーな学生の運動でした。
つまり山岳ベース事件の本質は「テニサーのノリで真面目に左翼活動をしていたら、いつの間にかバトルロワイアルが起きて、山の中に埋められていた」というところにあります。
私自身は30代なのでその当時の状況は資料を当たることしかできませんが、このあさま山荘事件および山岳ベース事件では私の母校の方もなくなっています。
学生の時に東日本大震災が起きましたが、私にとってそういった自然災害による死とは毛色の異なる「最も身近に”死”を感じる」事件でした。
もう一つ「オウム真理教事件」もあります。こちらも本質は結構似通っている。今でも宗教団体を騙ったサークル勧誘があり大学も注意喚起をしていますが、1980年代は今以上に無防備です。
「もし私が1960年代、1980年代に学生だったら土に埋められていたは、テロを起こしていたのは私だったのかもしれない」という潜在的な恐怖から私自身の思想への探索が始まりました。
論理体系の魅力
我々日本人はある意味で倫理や宗教に疎い。疎いわけではないのですが、
「とりあえず南無阿弥陀仏唱えとけ」といった「お手軽仏教」が多いため、「体系的に宗教を勉強する」ということがあまり多くありません。
日本の教育においてもそうです。本来であれば体系的である物理や数学も日本の受験においては「チャート式」という「問題のパターンとその対応付け」という形で理解することが多い。その意味において日本で「ロジックの体系」を学ぶことは実はほとんどない。
多くの人は何も感じることなく終わるのですが、非常に真面目で「社会はもっと論理的で効率的で経済的で真面目に働くことが報われるべき」と考える人たちはそれなりに多くいます。
そういう人がたまたま「あらゆるものを統一的に扱える論理体系」に出会うと、世界観を大きく変えることが多い。
「論理体系」がそういう人を引き付けるのは多くの事象がそのロジックに沿ってある程度説明することができるからです。AIやデータサイエンスもそうで「あらゆるものを単一の体系で操作する」ことをうたいますし、コンサルやIT企業は「あらゆる企業のあらゆる業務についての統一的な取り扱い」を売りにしています。
物理や数学と違ってAIやコンサルは「社会」との接続を謳いますし、宗教や哲学の”弁証法”の類は科学では説明できない個人的な出来事や心理的なことにも説明をつけることができて適応範囲が無制限です。
そういう体系をもって考えることができると「世界の解像度」みたいなのが変わる、まさに「世界が変わったように」見えます。これはある意味”天啓”みたいなものです。
大多数において、体系によって説明されることの経験はないけれど、”幸か不幸か”そういった論理体系に出会って浸かってしまうと、その世界観で物事を語るようになる。非常に運が悪く、ある意味で「初めての”しっくりくる”論理体系」が共産主義や宗教がだった人は晴れて土に埋まる候補者になってしまうわけです。
ハマるきっかけ
多くの人は例えそういう論理体系に出会っても「ふーん」としか思いません笑。例えば「AIは人間を駆逐する」理論をどれだけ皆さん現実的に受け止めているでしょうか?それなりに本気で信じている人は晴れて「埋められる人」候補です笑。それがいいかどうかは置いておいて、彼らがそう思うにはそう思うに十分の強い「体験」があったからだとは思います。
宗教でも共産主義でも常套手段で「可愛い女の子に勧誘をさせる」というのがあります笑。インタビューを見ると共産主義活動に入る動機にもモテたいとかかわいい女の子がいるからとかそういう理由から始めることも多かったようです。入口は常に「助平心」を含む願望、欲望です。その意味においては多くのAI信者も「生成AIで出てきた女の子の絵がドンピシャだった」とみたいな類かと思います。
そして、宗教もその他の体系も常に欲望、願望を叶えてくれる「希望」として人の前に現れてくる。例えば共産主義は「私自身に起きている障害=資本主義のせい」というそれなりに合理的な説明をします。「自分の苦しみを取り除く希望」として共産主義が立ち現れてくる。AIもそうです。「身の回りの非合理的な慣習や理不尽な命令」を取り除いてくれるという「希望」なわけです。
これと体系への入口で発揮された「助平心」が満たされること、例えばその団体内で彼女ができたとか、褒められて尊敬されたとか、が実感されると晴れて体系への信仰心が始まります。
ある意味で「セカイ系」=「個人の問題が中間項を挟まずに世界の問題に繋げる傾向のある作品」と同じなんです。
つまり、「モテたい、カッコつけたい、有名になりたい、お金ほしい」といった感情が、そのまま「それができないのは世界が悪いからだ」という短絡的に考えてしまう、つまり世界の解像度がもともと低い人には効果は抜群になります。
世の中「セカイ系」が当たり前になってしまった世界で「体系にハマる」ことから抜け出すのは逆に難しいのかもしれません。
論理体系と教条主義
そういう論理体系にはまるとどうなるか?
「その体系に沿った自分は正しいことをしている」という自身や肯定感につながっていき、さらには「その論理体系を知っている自分はそこらの人よりもより世界を詳しく理解できる」という優越感にもつながっていきます。
そしてその体系にのめり込むあまり「論理だってない意見」や「他の体系の意見」を受け付けなくなっていきます。そして持ち前の「助平心」と「生真面目さ」から自らが「布教者」として振る舞っていく。
こういう「原則を頑迷に守る人」のことをマルクス主義用語で「教条主義」といいます。要は「柔軟性のない頭でっかちな人」のことです。
これは宗教に限らず、研究者やコンサル、AIエンジニアも前述したようにある意味において「ある論理体系にハマった人」ですので、同様の傾向の研究者やコンサル、エンジニアには身の回りにいると思います。
こういう人が、「運悪く」オウム真理教や左翼活動にのめり込んで迷惑をかけた人間というわけです。この意味において、やはり多くの人にとって「紙一重」ではあったわけです。
私はというとそれなりの経歴を持ってますが、そこまで帰属意識もないし、そう人をみると捻くれ者なので論破しかかりに行きます笑。その意味において加害者にはなり得なかったでしょう。逆にプライドを逆なでして「被害者」になっていた可能性はなきにしもあらずです笑
社会と信仰
一般的には膾炙されているかどうかはわからないけれど現代思想(特にフランスポストモダン系)の帰結としては「価値は相対的」です。「正義の反対は別の正義」というやつです。
共産主義と資本主義どっちが正しいかとか、オウムと既存の仏教、ワクチンと反ワクチン、ロシアとウクライナなどなどにおいても「どちらが正しいか」というよりも「価値観=イデオロギーの違い」でしかない。
ではその中でどの「価値観=イデオロギーを選択するか」という点では「信仰」が重要になっています。
一般に世の中が不安定になると「新たな価値観」と称して様々な信仰が生まれてきます。
古くは末法思想からの鎌倉仏教なんかがそうですね。
共産主義も第二次大戦前後の混乱からですし、オウムはバブル崩壊などの社会の大きな変化によるものです。
昨今の社会情勢もコロナやら円安やら温暖化などなどで、社会が混乱の中にあるため、多くの人々は「確固とした正しさ」を求めてしまい、新たな価値観が大量発生するのは致し方ない。逆に「新たな価値観が乱立する程度」には社会が荒れているとも言えます。
昨今のニュースを見ると、投資ブーム、起業ブーム、AIブームなどなどが嫌でも目につきますが、これらが流行るのはそれが「正しいこと」に見えるからです。
しかし投資や起業が「正義」になったのはここ数年の話でして、投資筋や「エリート」のおじさんたちが勝手に決めた「正義」であって、10年後には全く変わった様相を見せているはずです。
つまりはこれらは現代における投資家を教祖とするエリート主義、拝金主義という信仰と言い換えることもできます。
多少の信仰は問題ないと思いますし、人が生きる上で必要なものです。一方で、信仰に対する「盲信」が起きると共産主義やオウムのように先鋭化しテロや殺人、詐欺などを起こします。
まあ、現実的には金銭で人を殺したり強盗したりする「闇バイト」も現れましたし、巨額の投資詐欺もいくらでも起きてますし。すでに拝金主義による社会の悪化は起きているのかもしれません。
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