夫婦別姓推進派にこそ古い家制度概念が残っている

姓へのこだわり

夫婦別姓の議論が選挙の際にツイッターでの候補者選びの基準になっているように夫婦別姓を殊更主張する人がいます。

この議論のややこしいところは本当は「アイデンティティ」の問題であって制度上の問題ではない点です。
何故なら今の法律でも「女性の姓」にする選択肢が存在するから。

何故姓にアイデンティティがあるのかというお話です。

呼び方の問題

夫婦別姓の議論をするたびに海外との比較が行われます。まあそれはそれで結構なんですが、どこの国との比較かも大事です。なんだかんだで多くの国で男性の姓が使われている。昔は結婚するとMrs.〇〇になった。

そのあたりの文化が段々と曖昧になりMs.が一般的になりましたが、今でも「結婚していること」を強調したい時(結婚式や葬式、家族旅行など家族でいることが明らかな時)はMrs.を使ったりします。

フランスだと男女ペアでいる女性はみんな「Madame」ですが笑

男性側も妙齢の女性に対して「どっちだ???」と思いながら呼ぶことは多かったのだと思います笑
むしろ、呼び方を変えることで男性側のアプローチも変わるので(既婚女性を口説こうとはしない)それはそれでなんらかのメリットがあったように思いますが。

さて、これは「よそよそしい場所」でのお話でしてそれ以外のところではご存知の通り「名前」で呼びます。

つまり苗字が出てくることは日常生活であまりない。それでも困らないしらなんなら「姓」が変わろうが変わるまいがあんまり関係ない笑

ジェニファーはロペスだろうが、コネリーだろうが、ジェニファーと呼びます。つまりは人間関係やアイデンティティが姓によってあまりブレない。

一方で日本は常に姓で呼び合います。親しい中でも名字ですし、名前で呼ぶのは学生時代か恋人くらいです。

それ故に「名字が変わると呼び方が変わる」というアイデンティティ問題になる。つまり「アイデンティティの連続性」故に夫婦別姓を望んでいるわけです。

姓は記号かシステムか?

これは「姓を個人をIDする記号」と見た場合の話です。

一方で日本の場合「家制度」との関連で語られることが多い。姓を「制度」として捉える人もいます。制度と見る場合は自身の「家」から別の「家」へのシステム移行になる。

つまり結婚によって「文化、慣習、家庭内ルールを変える」というわけです。そこに「旧姓システム」からの移行があるのが嫌われるわけですね。

といいつつも戸籍のルール上は必ずしもそうではなく、「結婚すると新たな戸籍が作られる」という仕組みになっています。

つまり「家制度」や「家に入る」「嫁ぐ」という概念は「各所で残っている文化的な名残」に過ぎず「新しい家庭」を築くという意味では「家制度」自体法的にはなんの根拠も持っていない。

つまりは「イメージ」もしくは「明文化されていない文化的な強制」としてのシステムを嫌うがためとも言えます。

要は戸籍システムには「制度上」男女差別や「家」という概念は存在しない。その家族(戸籍)の名として、好きな方を選んでくださいというだけです。

旧姓を維持するというアイデンティティ

男性側に女性が妥協するのが当然という考え方や独り立ちができておらず「実家スタイル」を強要する等など女性に対して配慮のない方がかなりいることにも問題はあります。

一方で、女性側にもある意味で「アイデンティティ問題」を起こす程度には名字に対しての「強い帰属意識」が存在しているし、男性と同じくらい「実家スタイル」の維持を主張している。

そして、法的には存在しない家制度について殊更主張したりする。

男性側もさぞ当然のように女性への妥協を要求するのも「ゴリゴリの保守」でもあるのですが、女性側も「ゴリゴリの保守」です。ある意味で「歩み寄りや妥協のない人々」、「変化を受け入れず、旧姓の慣習とスタイルを維持したい人々」であると言えます。

つまりは「制度上の新らしさ」を主張するという意味では「リベラル」のつもりかもしれませんが、そのメンタリティは「ゴリゴリの保守」であるというのが夫婦別姓派です。

つまり「いつまでたっても旧式なアイデンティティにしがみつく」のが夫婦別姓派とも言えるのです。

「名字」という双方がどちらかを選択できるという夫婦生活最初の「妥協」であり「変化」を受け入れられないということであって、「双方が歩み寄りを諦めた勢力同士の争い」ですので、夫婦別姓を選んだ人々は確実に離婚は増加するでしょう。

行政上の同姓の意味

さて、夫婦と見なされると法的には以下の効果が認められます。

赤の他人の二人と夫婦には法的に異なるため「法的」に「家庭」をIDする必要がある。その意味において、制度としての「姓」は「政府が認める家庭のID」のようなものです。
文化的なシステムやアイデンティティはどうでもよくて行政システム上はただの「ラベル」です。

行政的な観点からは夫婦別姓になった際には「家族」という単位を法的にどの様に捉えるのか?という問題にもなります。

夫婦別姓の場合、異なる「ID」の人からなる「家庭」をどの様に他の「家庭でない」人と区別するか?例えば「同じ家に暮らす男女」と比べて何をもって「家庭」というべきか?

目の前の男女が「夫婦である」というもっとも簡単な見分け方が「同姓」であることです。夫婦の義務を果たしてるとかそういうのはどうでもよくて、同姓であることが重要なのです。

つまりは「夫婦同姓であること」が「婚姻を証明するもっとも簡単な識別方法」であって行政上は「同姓であること」は夫婦であることの「十分条件」なのです。

これを否定すると「結婚証明書」のような公的書類の作成が必要になってきてより複雑怪奇なシステムになって行きます。

創姓という選択肢

行政上は同姓である必要があって家制度は現実に存在しません。となると「アイデンティティ」問題をこじらせないような「同姓の名乗らせ方」であれば解決できるた言えます。

そこで出てくるのが「自分で姓を作る」という選択肢です。

名字は「先祖代々」というわけでもなく多くの人は明治に入ってつけられたものです。

名字では微妙に常用漢字とは違う漢字の方がいます。梯子たかの高木さんとか。これは名字ができた際の差別化のためですね。

今現在で姓を作るのは外国人が帰化した時だけですが、元々「姓」は作られたものであり作ることが出来るものです。

名字に納得いっていないのならもう作ってしまえば良い。そうすれば自分で考えた名字なのでアイデンティティも迷子にならない。

現在の日本ではキラキラネームのようなことが起きているので「適度な制限」は必要です。新しい名字に「ヴィンスモーク」なんてつけられても困ります笑

例えば「小林」と「大野」さんが結婚して「大林」や「林野」にかえるとか、「愛宕町」出身だから「愛宕」と名乗るとか。

適度な制限を加えるとそれなりの解決策になるのではないかなと。


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