国民国家と少子化問題②
前回までに「国民国家」という観点から少子化は問題であって、国民国家の構成に重要なアイデンティティの拠り所が所属から能力へ変化した事が遠因としてあるという話をしました。
そのため解決策としては「アイデンティティの拠り所」を所属に戻すことを考えましたが、その施策がうまくいっていない現状があります。
そこでその原因を探り、真の少子化の解決策を考えていきます。
移住と疎外
移民や出稼ぎ等の移住の多くの原因は広い意味での「疎外」です。クルド難民やユダヤ人、白ロシア人の様に迫害や経済的な理由を含めて「生きづらさ」が理由です。残る生きづらさが移民のリスクを超えた時に人は移住を決断します。
それは金銭のみならず(別に贅沢しなければ日本でも十分生きていけます)、別の生きにくさ(人間関係、プライド、能力、性格等など)も含めての生きにくさ故です。これは現在の転職でも同様です。
現在中国から日本へ移住する人も、日本からオーストラリアへのワーホリも「日本(中国)の生きにくさ」よりもオーストラリア(日本)の方が良いと思っているわけですね。
現在だけでなく例えば戦前のアメリカ移民の理由にあるように日本の田舎では将来的にハブられる運命にある「農民の次男坊」が多かった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
移民は多くの場合「疎外されていたこと」、そして「疎外された環境から能力で生きてきたこと」にアイデンティティがある。
アメリカ民主党の例を挙げましたが、民主党の支持基盤は「都会部=移民=能力主義」という等式が成り立ちっている。共和党の掲げる「コミュニティによるアイデンティティ」を否定するのはこれが理由です。
ある意味で現在の能力によるアイデンティティへの移行は資本主義の結果でもありますが、「移民のアイデンティティ」への移行でもあり「疎外された人々のアイデンティティ」でもあるわけです。
都市部での能力コミュニティの誕生
実際のところ、移民や移住したところで経済的に良くなることはそんなにない。東京でも田舎でも能力相応の給料しか得られないし、より東京の方が経済的な貧困はより高まります。移民による犯罪がどこの国でも発生しているのは経済的な貧困が主な原因です。
それでも東京やアメリカが「魅力的」にうつるのは「疎外」を感じる人にとって「受容」されているように感じるから。実際は性的搾取をされているのに孤独な若者がトー横に集まるのも同様です。
都会のほうが人が多いので色々な人がいます。人が多いので「自分の仲間」が見つかる確率も相対的に上がります。そして、都会は人が多く入れ替わりも激しいが故に良くも悪くも他人に無関心です(逆に昔からの住人は田舎のそれと大して変わりません笑)。
それ故に田舎よりも「受容」されているように錯覚する。それは決して受容されている訳ではなく、不干渉に過ぎない。このようにして都会は「かつての疎外をリセットし、新たなコミュニティとアイデンティティを再構築できる場所」として受容されるように見える。
そのリセットされた関係から「生きるため」に互助的な関係が構築されていく。そしてその互助的な関係を継続、拡大するために、能力とコミュニティへの貢献の意思を持つものへの参加を「オープン」にすることでコミュニティを拡大していく。
こうして都会において「能力アイデンティティのコミュニティ」が誕生する。
能力コミュニティの維持と腐敗
時代が下るとその人々が特定の「所属コミュニティ」に受容される場合もあるしそうでない場合もある。家を建ててそこでコミュニティに所属することもある一方で、コミュニティへの所属を拒否することで、別に疎外もされていないけれど「所属アイデンティティ」がない人々が生まれます。
前述のように能力アイデンティティを持つ人は「所属アイデンティティ」を否定する傾向があるので「コミュニティに吸収されない」人々はこれまでの人々と同様に特定の能力が必要です。
ところが能力は遺伝しない。親は能力を獲得させようと教育熱心にする場合もありますが、失敗することもある。唯一能力アイデンティティの親から相続されるものは能力ではなく「金」になる。
また、以前からこのnoteで批判していますが、能力アイデンティティのコミュニティでも「組織の腐敗」は免れません。能力が細分化され、特定の能力や特定の人々で周りを固めるようになる。その参加条件はその能力の相続を表す「金」となる(何故ならば彼ら自身も能力がないから)。
すると田舎同様に不寛容で閉鎖的なコミュニティが出来上がり、「能力があるもの」が仲間という「アイデンティティそのもの」を歪ませます。
ある意味で「エリート層の劣化」とも言えますし「エリート層の”田舎のおじさん”化」とも言える現象が起きている。
昔は己の能力一つで生きていけるという希望と、それを受け入れる逃げ場としてのコミュニティがあったものが、能力コミュニティが腐敗した結果、逃げ出したところで異なる疎外が現れている状況に若者たちは直面している。
コミュニティの機能不全=アイデンティティの機能不全
まとめると「能力主義的コミュニティ」の世代交代の際に、必ずしも能力を得られなかった人々が「その能力の相続物」として拝金主義をアイデンティティにしたり「能力主義」を歪ませたりすることで、閉鎖的で排外的な共同体にしている。
そのため、まともにアイデンティティを満たせる集団の仲間に入るには「手段を問わず(なぜならば能力主義も腐敗しているから)金を得ることで歪んだ能力主義の仲間入りをする」しかない。
結局のところ「コミュニティの機能不全」によって「アイデンティティが迷子」になっているという見解は変わらないのですが、その原因は主に「コミュニティ側の機能不全」にもあると言えます。
現在の地方創生がうまくいかないのは、原因が「コミュニティ」側にあるのにそこに資金を投入したり、企画をしても「原因そのもの」が大きくなるばかりだから。かといって個人への直接の投資は「お金を溜め込む」だけですのでこれまた効果がない。
これが現在の少子化政策の失敗の主要因のように思います。
腐敗しない共同体の作り方
今までの議論は国民国家のアイデンティティの話から自分なりに話を繋いでいきましたが、話の流れは基本的にマルクスの疎外論と同じです。
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku1932/30/4/30_4_243/_pdf/-char/ja&ved=2ahUKEwi6-6e45omIAxUXdfUHHQrRJ8kQFnoECCoQAQ&usg=AOvVaw3mgOHN2XGVkILTcQOqQl6B
多少異なるのは疎外の原因が資本主義だけでなく「コミュニティ側」にもある点です。
解決策は結局のところ「アイデンティティ」の確保となるのですが、マルクスの言うように「資本主義の帰結」として疎外されているのであれば、資本主義をやめるしかない。
一方で共産主義への移行が現実的にできるわけでもないし、トランプ氏がカマラ氏をして「共産主義」と揶揄しているようにエリート層の閉鎖的な社会ができた結果、その閉鎖社会の維持を理想として旧ソ連のような全体主義を掲げている(こちらもこのnoteで批判しているものです)。
つまり「程よい資本主義」を実現、継続していくためには「過度な資本主義的価値観」を制限するのと同時に「社会主義的な閉鎖社会」を防ぐのが重要になってくる。
社会主義的な閉鎖社会の解決はすでに先人たちが提案しています。適切な資本主義民主主義社会、ポパーのいう「開かれた社会」を目指す。そのために健全な選挙、健全な競争、健全な競争を阻害する要因の排除を行う。
実は国とステークホルダーがグルになってしれっと施行されいている「抜け穴」や意図的に「不平等」になるように規定された制度に起因する不平等を限りなく無くし、正攻法な能力だけの競争を促進する。そしてその能力を得る平等な機会を提供する。
不寛容に不寛容な世界の作り方
資本主義的な価値観の是正は一度私利私欲に走る行為を容認すると現実的に中々再建は難しいんですよね。。。信頼関係が一度に失われるやつですから。
こちらもポパーが言うように「不寛容には不寛容」な仕組みを作るしかない。社会を私物化するような人々にそれ相応の不寛容を与える。
不寛容に不寛容な社会を作るにはどのような政策や戦略として最も容易で効果的なのは「口コミ」です笑
我々は「コンプライアンス」にがんじがらめにされて苦しんでいますが、些細な評判によって経済的な不利益をもたらしているのを数多く見てきています。セクハラやパワハラによる謹慎も然りです。
あまりに影響が大きな問題については様々な人が動くようになっている現実もあり、適切な口コミへのフォロー(SNSで話題になっている”悪事”)に対して警察、司法が迅速に動くことで”裏切り者”は排除される仕組みを作ればいい。
一方で悪用することも容易であり、嘘や主観的な意見で人を批判したり詐欺を働いたりして利益を得ようとする人もいる。むしろこちらの側面が強調されているので、適切な批判も有耶無耶になってしまう。
そのためにも「基準やルール」を設けないと嘘と声が大きい人が勝つ。それが「倫理」であり「道徳やモラル」であるのですが、ある意味で人々が捨ててしまったものです。
口コミによる相互監視とは結局のところ「今までの田舎」と同じです笑。不寛容に不寛容な世界を作ろうとして「ただの不寛容」な世界になるだけです。
まとめ
国民国家という概念から始まって、マルクスの疎外論をベースにしつつ、アイデンティティの喪失が少子化の原因であろうと、そしてその解決策は「行き過ぎた資本主義と全体主義の是正」というなんともまあありきたりな話になってしまいましたが笑、共同体としてのアイデンティティの確立というのは中々難しい。
過去の事例をもってすると「カリスマ」、「宗教」、親族の集合体、企業(豪農)、貴族の等我々が非合理的と忌避するものばかりです。
そして人間は昔からたいして変わったわけでもなく、権力側も市民側もこれらの効力がなくなっていることを自覚しながら、これらのものに依存しようとしているので機能不全に陥っていく。
それ以外のコミュニティの作り方は我々は今まで見たことがありません。
地獄のような閉鎖社会が継続していくのか、革命が起きてコミュニティがリセットされるのか新たなコミュニティの形態が表れるのか、我々は歴史の大きな転換点にいるのかもしれません。
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