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マイノリティは悪いことなのか

マイノリティという言葉が昨夜ベットに入った時から脳内でグルグルしている。すっきりさせたいので、ちょっと思っていることを書いてみようと思う。

前提として、私はマイノリティであることは胸を張っていいと感じているタイプで、人と違った感性があることって幸福の一つだと思っている。


私がマイノリティだと感じた瞬間


今思えばマイノリティだなぁと思う瞬間が大学時代にあった。

アコースティックギターの音色がとても好きで、念願叶って音楽系の部活に所属した。
空きコマがあればずっと部室に籠るほど弾くことに夢中だったが、他人が弾く音色の方が圧倒的に好きだった。スライドさせた時にキュッとなる音とか、ハンマリングした時の伸びの音とか、もう耳が至福でしかない。
その結果、好きすぎて他大学の学祭にも一人で行ってライブを聴いたし、その人たちと交流だってした。良いなって思った人の音楽を聴くため、路上ライブもちっちゃなライブハウスにも足繁く通った。
まだ世に出回っていない原石を発掘したかのような、高揚感に包まれた状態だ。

その延長として「めっちゃ良いからこの歌聴いてみて!」と周囲に伝えたことが何度もあったが「う〜〜〜ん」という、反応に困ったような感想ばかりであった。
そらそうだ。前情報が何もない状況で「この人たちの声と音色が絶妙にマッチしていて、ほんまおすすめ!!」と言われたって「誰やねんこの人ら。素人やん。」って、なりますよね。
今なら思う。1曲5分、何度も時間を奪ってごめんなさい、と。そして、完全にマイノリティだったなぁと反省する。

けれど、あの時私がとった行動は違ったのかと問うと、最高な時間だと今でも思うわけで、出会えた私は幸せで、マイノリティであったことを誇りに思う。

とはいえ、マイノリティな私っていいでしょ?なんて微塵にも思わないのでご安心ください。触れる機会が多いものに対しては素直に良いなぁって思うし、ミーハー心も兼ね備えているので、話題性があるものには触れるようにしている。

どこか、大衆が良いと思っているものを共感できる人でありたいとも思うし、共感できる、話題として成立する気持ち良さだって知っている。

ちょっと孤独で隅っこに追いやられがちなマイナーな音楽では、その共感を得るには時間がかかるということも知っている。

なぜマイノリティは浮くのか

理由として、2つ挙げられるんじゃないかと考える。

①人と異なる行動を良しとされる風習がないため。

戦後日本が高度経済成長を実現できた理由は、日本経済を立て直したいとの同じ目線に立って同じ目標を達成しようとする日本人の共感100%文化があったから。だから、浮かないように行動をすることが根付いている日本にとってはノーマルなことだし、それが現代においても正解のようにも捉えやすい。もちろん、その共感文化によって日本は復活したので、必要不可欠なことである。

②共感する(される)ことで、人は安心感を覚えるため。

共感されて嬉しい時って「こんなこと言ってもいいのかな」「私だけじゃないのかな」という、不安の現れも潜在意識としてある。

では、なぜ、大衆の人が良いと言ったものに共感をしやすいのか。
それは、完全に単純接触効果の影響だと思う。

多くの人と「良いよねぇ」と共感を得られることは心理的安全性の確保としてもとても健全なことだし、魅力的。
マイノリティなことについては、そもそも触れる機会がないため「そんな価値観があったんだ」というレベル。そら、共感してもらえることはないし、しんどいよね。

マイノリティが共存する場所

マイノリティ同士、現代ではネットが共存しやすいと感じている。

私は映画は基本一人で観るようにしている。鑑賞後の直接価値観を共有する時間が苦手だからだ。
けれど、私の価値観の答え合わせをしたいとの思いから、鑑賞後にはいつだってネットで映画の感想を見に行くという矛盾が生じる。ネットは正直だ。自分の意見を素直に表現する人が多いので、マイノリティな意見も受け入れられることが多い。みなが感動したという場面で感動できない自分がいたとしても「私だけじゃないんだ」とほっとする瞬間だってある。

では、そのマイノリティという状態をどうやって満たしたらいいのか?

私は、声を出すこと、だと思っている。

とはいえ、声を上げることが全て正しいとは限らない

例えば、大きな変革は要らず現状維持を望んでる会社に入社したとして「伝統なんて壊して、もっとイノベーションできるような理念にしましょうよ!」と言ったら、それは意見ではなく、そもそも価値観があっていないので今すぐイノベーションを求めている会社に転職すべきである。

「心地良い環境で読書をしてもらうため、私語は控えめでお願いします。」と書いてあるカフェで、ベラベラ話す人がいたら、その人はお店に合わない。即退場だ。

こういった、線引きができない場合、明らかに指を刺されるし浮く。
マイノリティが全てではなく、それは確固たるルールを守れていないか、変える必要のないお節介な人だ。

もしかしたら、判断が難しいからこそ、マイノリティな価値観を発信しにくいんじゃないかと感じた。
とはいえ、マイノリティだと思っていることを声に出すことは本当に勇気がいることで、それができるのであれば、ぜひとも自分を賞賛してあげてほしい。
その声に賛同する人がいるのであれば、あなたにとっても安心感に繋がるだろう。

何でもぶった斬るのは違うし、時にはしっかりと空気を読む必要がある。
そして、その空気を読むタイミングが難しいから、マイノリティな思考はなかなか発されることがないんだろうな。

結局マイノリティは良いのか悪いのか

結論、ケースバイケースじゃないかと着地した。おいおいおい!という声が聞こえてきそうだが、それ以上でもそれ以下でもない。

マイノリティ/マジョリティとカテゴライズさせるから前者は窮屈なんだろうなぁと。

もしもちょっと人と違うかも・・・と思ったことがあり、それを発言することができないのであれば、心理的安全性が確保できていないなって思うし、それも意見だからもちろん受け入れるよ!という状態であれば、どんどん自分を出していい。



そして、一生分くらいマイノリティという言葉を使ったので、後から何回使っていたのか、正の字にして数えてみようかなぁ。

阪急電車を降りたベンチより。


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