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イツカ キミハ イッタep.65

 東京の桜が咲いた。3月14日に開花宣言が出たのは史上最も早いそうだ。来週には満開となるだろうから、当然ながら新年度が始まる頃には青葉が眩しく映るに違いない。

 4月から新しい体制になるよ、と言われていてどう変わるのかと思っていたら、所属組織のトップが変わった。時は今から遡ること10年前、私は入社以来初めて所属グループ名の無い組織の一員となった。

 グループ名はなく、「付き」である。
世の中的には、社長付きとか室長付きとかいう役割としての立場を指すときに使われる。
 一言で言えば、側近。
所属長のスケジュールは秘書が行うが、それ以外の社内外対応で一番近い立場で長をお支えするのが仕事だ。

 私は、「付き」の中でも最も下っ端だったので、役割としては毎月所属長が社内向けに挨拶する際のネタを月末に提供する役目を仰せつかった。なんのことはない。新しいトップがどんな人なのか、手っ取り早く掴んでくるために、最初に探りに行かせるのにふさわしいのは女性だろうとの理由で選ばれただけだった。

 3月下旬、新年度から座る席のある執務室にやってきた組織トップのMさん(50代男性)は、物腰の柔らかい、大変丁寧な方だった。表立って怒ることはないけれど、静かに理路整然と相手を詰めていくタイプとの前評判で、初対面の時にはその柔和な笑顔の奥に、もの凄い観察眼で見定められているんじゃないかと内心ドキドキした。

 着任前ということで、直近の組織内の出来事や昨今の社会情勢を踏まえた話題提供などを一通り終えると、Mさんは深く頷きながら言った。

「ありがとうございます。だいぶ話すイメージが固まってきました。後は、自分でも少し考えてみます」

 4月、着任時の挨拶では私から提供した内容に少し触れて、更に発展的な話題へと移らせつつ、最後は社員に対し期待を込めたメッセージを贈られた。

 さすが人に伝わりやすく、なお心に残る内容をスラスラッと何も見ずに話せるのはトップだからこその経験がものをいうのだな、と聴きながら感じた。

 それから毎月半ばを過ぎると、ふと仕事の手を止めて、あたふたと全体を見回し挨拶に引用してもらえそうなネタを集めることを繰り返した。
 いつしか忙しすぎてネタ集めのことをすっかり忘れて、「明日は◯月1日、トップメッセージの日だぁ〜」と慌てて執務室の扉を叩くこともあった。
そんな時もこちらの落ち度を指摘することなく、

「大丈夫ですよ。もうだいたい頭の中で話すことは決まっているので。それより、お仕事のなかで困ったことはないですか?」

と逆に気遣っていただいた。

やっぱり上に立つのは人格者じゃないと務まらないんだな。

 そうしみじみと感じ入りつつ、またしても手ぶらで執務室の重厚な扉を開き中へ入ろうとすると、秘書から「待った」がかかった。
お伺いする予定の13時を過ぎてはいるものの、外出先から今戻ってランチを自席で取られているので、少し待って欲しいとのこと。

 入り口にある扉の開く音が聞こえたのか、遠くからMさんの声がした。

「どうぞ、構わず入ってきてください!」

 私の後も、分刻みで予定が入っている所属長のスケジュール管理をしている秘書はそっと睫毛を伏せた。

 私は忍び足で赤い絨毯の敷き詰められた廊下を進み、執務室の第二扉の前でタイミングを見計らっていた。
顔だけ出して部屋のほうを覗いてみると、Mさんは卵サンドを頬張っていた。空いたもう片方の手で手招きしている。

「すみません…お食事中に。実は、お食事の手を止めてまで聴いていただけるほどの情報はあまり持ち得てはいないのですが…」

 申し訳なさそうに頭を下げると、大きなマホガニーの机の上に置いてあったガラスのコップが目に入った。
コップが先ではなく、コップになみなみと注がれている謎の深緑色の液体の方に目が釘付けとなる。Mさんはそれに気がついたのか、黄色い卵たっぷりのサンドイッチを呑み込むと、ガラスのコップを持ち上げた。

「すごい色でしょ?これ、毎朝私が作っている小松菜ジュース。小松菜のほかに、バナナやブルーベリーなどの果物含め計9種類の野菜とフルーツが入ってる」

 Mさんはそう言うと、喉を鳴らして一気に飲んだ。

「私も、実は毎朝人参ジュース、飲んでいるんです。スロージューサーと言って、酵素等の栄養素をそのまま閉じ込めた生搾り低速ジューサーなんですけど…」

予定していた10分間は、ほぼジュース作りの話だけで終わってしまった。

翌日、◇月1日の月初めトップメッセージでは当たり前だがジュースの話は一切なく、淡々と経営上の課題や組織風土に触れられ、皆とありたい姿を共有して終わった。

その時もはや私の役目は必要ないと悟った。

 その月の下旬、再び執務室を訪れたとき、私は自分の水筒を持って入った。
定例の話題提供の後、椅子の下に置いておいた自らのサーモスの赤い水筒を取り上げてMさんの前で蓋を開けた。

「これ、先月お話した私の飲んでいるスロージューサーで作ったジュースです。少し召し上がってみませんか?」

 今思うとどうしてこんな愚行に及んだのか思い出せないのだが、その時は手作りジュースという唯一の共通項を見つけられた喜びと、(話題提供はイマイチだけど)別の部分で凄いと褒めてもらいたい気持ちが募ったがゆえの行動だったのかもしれない。

 Mさんは、へぇ〜っと目を丸くして注ぎ口の中に見えるオレンジ色の液体を眺めると、一拍置いてこう言った。

「こういう貴重なものはね、秘書のSさんとも分け合いましょう! Sさ〜ん、ちょっと」

 かなり大きな声で総務部のほうに向かって叫ばれたので、何事かとSさんだけでなく、上長までが走ってきた。

「あのね、ジュースを味見させてもらうから紙コップ、持って来てくれませんか?人数分ね」

 事の次第が読めないSさんと、その上司と、Mさんと、私の前に給茶機のところに積んであった紙コップが4つ並べられた。

 私はうやうやしく蓋を開けると、真っ赤な水筒からドロドロと溢れてゆく人参ジュースを全員のコップに3センチ程度注いだ。

 Mさんは笑顔で、最初の一口を秘書、そしてその上司の順番で促した。

秘書のSさんが真っ先に一口飲んでから
「なにこれ、すごく濃い!そして甘い!」
と驚いたような声を出した。

続いて上司が不思議そうな顔つきで、コップを口許に寄せると
「見た目、グロいですよねぇ。この濃さ。私、人参は苦手なんですが…。アレ?でも、りんごジュースみたいな味だな」
ぶつぶつとそう呟くのを聴いてから、Mさんはまずコップの縁まで鼻を近づけ、そして、舐めるように少しだけ味わう仕草をした。

「ほぉ〜、なるほど。なるほどですね。
確かに初めてです。身体に良さそうですな」

 予定していた10分を5分以上延長してしまったので、次の来訪者に頭を下げながら逃げるようにして執務室を後にした。
Mさんのコップは残したまま…。

 その後、しばらくして月初め挨拶のメッセージ用話題提供はしなくてよいと上長から指示があった。「忙しいのに、いつも来てくれて嬉しかったと言っていたよ」との言葉とともに。

 なんとなくジュースの件以降、次に合わす顔が無いと思っていた私には、ありがたい指示だった。
 しかし、遅れることだいぶ経って、Mさんの一連の対応がトップとしての正しい振舞いだったということに気付いた。

 時が戦国時代だとしたら、主将に差し出す盃の中の酒は、まず家臣が口にしてその安全を確かめるだろう。

 部下が善かれと思って差し出した水筒のなかの手作りジュースが、万が一にも腐っていたりしたら、次の予定以降に差し障りが出てしまう。それを相手に対して「断る」のではなく、先に飲ませてその反応をみて自身は少量の味見をすることにより、礼節とリスク回避の両方を得ることが出来たのだ。

 あの時の咄嗟の振舞いは、果たして私の想定と同じ考えに基づいたものだったのかどうか。

 ご勇退されたMさんとこの4月に再会する。

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