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災害史観の変容!破壊神をも民営化する時代へ
破壊神は死んだ。そして、強い指導者による破壊を待望するようになった。
「スクラップ・アンド・ビルド」から「スクラップ・トゥー・ビルド」へ
日本は災害史観に基づき、木造建築が選好されてきた。度重なる災害による破壊が、再建の動機となり、復興の過程で新しい社会、都市、技術の発展が促進される「スクラップ・アンド・ビルド(scrap and build)」が起きた。
一方で、戦後の技術発展に伴い、鉄筋コンクリート造の建築が増え、家屋は耐震化されるなど防災力が高まってきた。すると、壊滅的な災害が起きない限り、幸か不幸か「スクラップ・アンド・ビルド」が起こりにくくなった。
政治的には、建設業の供給能力と自民党への集票力を維持するために、長期的に需要を生み出さなければならないが、災害によって破壊=スクラップされる機会が減ることは不都合だ。
最後のフロンティア・明治神宮外苑に再開発の手が伸びた現在、東京の開発には手詰まり感がある。建設業には、タワーマンションとして高度利用するしか能がない。
「スクラップ・アンド・ビルド」から「スクラップ・トゥー・ビルド(scrap to build)」へ災害史観が変わってきているのではないか。つまり、「再開発するための破壊」が歓迎され、推進され、許容(甘受)されているのではないか。自然災害が破壊できなくなったのなら、規制緩和や不当な地上げによって破壊し、再開発用地を確保しようじゃないかという考えだ。
言わば、破壊神の民営化が起こった(神から人民へという意味での「民営」)。スサノオノミコト=自然災害ができなくなった破壊を、政府や地方自治体の〝突破力ある〟指導者や不動産業者の威を借る地上げ屋が肩代わりしている。中身は旧態依然としたパワハラ上司だが、河野太郎や斎藤元彦、橋下徹、泉房穂、石丸伸二などのような破壊者を、シン・災害史観を持つ者は待ち望んでいるのだ。
木造密集地区の住民を一掃して建設されたタワーマンションの入居者は、そこに住むだけで破壊者への支持が内在している。彼ら/彼女らにノブリス・オブリージュは存在しない。
『進撃の巨人』が暗示する現代の「虚偽の繁栄」
『進撃の巨人』の作者・諫山創は、大分県日田市の出身。日田は盆地であり、この地形が作品の基本的な構想である「壁に囲まれて暮らす人類」につながったとされる。
最終章で主人公が起こす「地ならし」は、壁の外側をすべて破壊し尽くす。災害に強い盆地に暮らす作者による、災害リスクの高い地域へのまなざしにも思える。
100年の平和を手にしてきた人類だが、巨人を恐れており、その安寧が「超大型巨人」と「鎧の巨人」によって破壊されるのがミソだ。それぞれ大災害と戦争を象徴している。
いくら安住の地(タワーマンション)を得ても、災害リスクの高い地域へ思いを馳せる共同体意識=国家観がなければ、それは「虚偽の繁栄」だ。
最後に、有事において破壊者(〝突破力ある〟指導者)は人災という二次災害を起こしうることは指摘しておく。