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末代の罪悪感

私は未婚で子どもがいない。
次兄も同様である。
唯一結婚して子どもがいるのは長兄だけで、
兄弟3人中、世の中のとりあえずの「普通」を行っているのは
彼だけである。

下宿先から久しぶりに実家に帰った。
実家は私がいなくても回っており、
特に困ったこともないようで、少し寂しい気持ちになった。

実家に帰って強く思ったのは、両親、特に父の老いが
目立ってきたなということである。

認知症が進んだとか、寝たきりになったとか、
そこまではいってないが、明らかに一回り小さくなり、
声も枯れてきているし、すぐに言葉が出てこなくなっていた。
彼ももう84歳。いつお迎えがきてもおかしくない年齢である。

そう考えると、結婚もせず子どもも作らず、
家からも出ず、1人の大人としての役割をほとんどしていない私が
なんだか申し訳なくなってきたのである。

結婚も子どもも、するしない・作る作らないは
個人の価値観の問題であるのだから、そこに執着するのは
おかしいとは思うけれど、うつ病で
「する」「しない」「作る」「作らない」の
選択をすることすらできず、年月がただ流れていった自分は、
周囲の人間より劣っている気がしてならず、
孫の顔を見せてやれなかったという小さな後ろめたさが、
くるくるとまとわりついてきている。

子どもは年齢的にもうアウトだし、
結婚も親のためにするものではない。

でも、心のどこかで、「結婚して子どもを産む」未来を
描いていた自分がいて、その未来が潰えたという現実が、
バッと目の前に現れたのである。
目の前に現れ、そこでできたであろう親孝行が
もうできないのだと突きつけられ、戸惑いと罪悪感を抱いている。

私の代で家の血が止まるというのは、
父の代まで連綿と続けていた行いを止めるということである。
そう考えると、父の行いを無駄にした、という虚無感に襲われた。

繰り返すが、結婚するのも子どもを持つのも己の意思である。
誰かの押し付けでするものではないし、
世の中がそうだから、で作るものでもない。
ただ、私はそんな意思も押し付けも世間の風潮も関係なく、
病にかかりきりで家庭を持つという選択肢すらできなかった。
そこから私の親不孝は始まっている。

父の老いはおそらく数年で終わるだろう。
そのとき、「もっとああすれば良かった」と
後悔しないように、別の親孝行をしていきたいと
強く思った。

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トモノリ
リラックスするためのお香やコーヒー、お茶代、学ぶための書籍代にします。 応援していただけると嬉しいです。 お礼は直接できませんが、日々良い文章を書いていこうと思います。