「封印」 第十四章 氾濫
「戒厳令が発令されました! 絶対に家の外に出ないでください!」
ものすごい数のパトカーが窓の外を通り過ぎていく。
「命令です! 絶対に屋外にでないで下さい! これは市の法令です!」
市の警報音がサイレンに重なった。
「よく言うよ。普段は何にもしないくせに」
窓際で、杖を手に、妻が不満をこぼした。
窓の外を、大勢の人間が走り去っていくのが聞こえる。カーテン越しに、人々が走る方向を覗くと、向こうから更に大勢の人間が走ってくるのが見える。警察のサイレンと、市の警報音は、至る方向から聞こえる。
女の人が倒れた。アスファルトの上で、彼女の顔が、こちらに向いた。
咄嗟にカーテンを閉める。
玄関を誰かが叩く。
「入れてください!」
覗き穴を見る。学生だろうか。覗き穴を見ると、大勢の若者がものすごい形相と呼吸で、おしくらまんじゅう状態になっている。彼らは通りを何度も何度も振り返りながら、ドアを叩き続ける。
「お願いです! さっき帰宅してましたよね! お願いします!!」
ドアを押さえながら、家の奥を振り返る。お腹を抱えながら、妻は首を振った。妻のスカートには血が滲んでいた。
「薬なら持ってます!」
その声に、自分の心は揺らいだ。
「だめ」
妻の口が動いた。でも、自分はドアを開けていた。
医大生達だろうか、何人かは白衣も着ていた。泥と血で汚れている。止める間もなく、彼らは中に押し入り、すぐに鍵を閉め、チェーンをかけた。
「薬は?」
先頭の生徒がリュックを開けた。
「抗生物質と解熱剤なら…」
生徒の顔が上がる。そして青ざめる。振り返る。
「おい…」
妻が立ち上がっていた。
「生まれる」
破水。出血。そして転倒。
「すぐに病院へ!」
妻を抱え、叫ぶ。そこまで叫んで、口を閉じる。生徒達の顔が引き攣った。妻を見下ろす。大きく開いた口が、視界を覆い尽くした。
*
「埠頭で事件です!」
新人捜査官が、無線越しに叫んだ。
「軍が発砲してます! ダムナグ社も、警官達も! 暴動には見えません…同士撃ちだ」
イウェンとアンサング達公安は屋上に駆け上がった。途中、南燿兵達も合流した。
「どうしたんだ?」
「帝国政府庁舎を警護するはずだったのですが、渋滞で動けず、駅での騒動を聞き、徒歩で来ましたが、こちらの部隊と合流するよう指示を受けました」
「基地から走ってきたのか? 頼もしいよ」
港から炎が上がっていた。同時に、津波の様な、凄まじい土煙の流れが建物の間と路地を突き抜けて、こちらに向かって来る。
無線が鳴った。
「屋上、何が見える?」
コウプスの問いに、アンサングは答える事が出来なかった。説明ができない。ただ、何かとてつもない危害が近づいて来ることだけは確かだった。
「迎撃体制。扉を閉めろ。狙撃銃は屋上に…」
アンサングの声を、激流がかき消した。南から、土煙が上がった。
「なんだあれ…」
笑い声が。人々の悲鳴に混じって、聞こえ始めた。鳥肌が立った。
彼らの笑い声は、動物的な獰猛性ではなく、理性的な意図を含んで、同時に完全に狂っていた。
*
エテューは走った。市民達もそれに続いていた。
電柱に身を隠し、背後を振り返る。感染者の姿は見えなかった。血まみれの人の姿が転々と見えるだけだった。震える手と、荒れ狂う呼吸を抑えながら、弾倉を入れ替える__最後の弾倉__再度、携帯を開く。
エリに電話をかけるも、電話はどこにも繋がらなかった。血で画面がぬるぬるした。それをズボンの後ろ腰で拭う。
『家で会おう』とメールだけ打ち込み、エテューは走り続けた。
息も途切れ途切れに、南警察署に戻る。
受付は、通報者と負傷者で大混乱になっていた。防護服を着た兵士も、逃げて着た民間人もたくさんいた。
エテューは門に戻り、扉に手をかけた。門番の警官がその手首を掴んだ。
「何してるんだお前」
エテューはその手を掴み返した。
「離せ。ここを閉めないと」
「何を言っている」
「離せ!! ここを…」
「署長にまずは言ってくれ」
譲らない警官を前に唸り、エテューは階段を駆け上がった。
「署長! 署長!!」
暴動鎮圧部隊を躱し、エテューは署長室の扉を叩いた。防護服の兵士も続いていた。腰の銃に手が伸びた。兵士は両手を挙げた。
「私も話があるだけだ」
扉が開いた。署長が何かを言う前に、エテューは署長室の窓から外を見下ろした。
「署長、すぐにここを封鎖してください。どうなるかわからない!」
「まだ状況もつかめていないんだぞ」
「そうです! 少なくとも正面を閉めてください」
「同感です」
兵士が言った。防護ヘルメットを脱ぎ、兵士はエテューを一瞥した。
「今後どのような対応をするにせよ、このままでは内側から瓦解します」
「なんのことだ?」
「感染者がいるかもしれません」
「ザヘルか?」
「そうです。感染者は他者を攻撃する。狂犬病に似ています。港ですでに広がり続けています」
廊下の先で悲鳴が聞こえた。エテューは銃を抜いた。署長は電話を取った。
「何事だ?」
応答が聞こえる事はなかった。
エテューは廊下に出た。兵士はついてこなかった。廊下の先で警官が押し倒されていた。彼を押し倒す男の頭をエテューは撃ち抜いた。
「署長!」
返事の代わりに、非常ベルが鳴った。エテューは階段を駆け下りた。
「負傷者を集め…」
阿鼻叫喚。
一階は、人間の波が、折り重なる様にして噛みきあっていた。その中に、続々と、負傷した警官達が外から戻ってくる。
「負傷者は全員外だ! 今すぐに!」
スピーカーからの署長の声は、すぐに咆哮と笑い声で、かき消された。
門が閉じた。それを乗り越えてくる人の群が見えた。皆血まみれで、満面の笑顔を浮かべ、門番に殺到した。
「下がれ!」
そう言った警官の喉に、さっきまで怪我をしていた仲間が食いついた。悲鳴。それを引き剥がそうとする警官の指も別の女が噛み付いた。逃げ惑う人々。その合間を縫って、警官の笑顔が飛び込んできた。
警官の首と額を撃ち抜き、エテューは下がった。階段ではなく受付の後方の扉を閉める。
受付では増大していく感染者に警官も民間人も防護服を着た兵士も皆食い殺されて行く。
彼らの死を盾に、硬い扉に守られ、エテューは一瞬の休息を得た。
無線が鳴った。署長だった。至る所から銃声も聞こえた。
「全員、交戦するな。まずは生き残れ。頭を撃てば死ぬみたいだ。隠れられるところに隠れて、機会を見て各自脱出し、戦闘可能な者は北警察署で合流との命令が下った」
打ち鳴らされる扉を机と椅子で固定し、エテューは残弾数を確認した。あと三発。手足を確かめる。噛まれていない。
周りの警官達が駆け足で集まった。
扉越しに受けつけを振り返る。血まみれの、肉や内臓がぶらさがった警官や兵士達が立ち上がっていた。
無線から小さく声が流れ続ける。さっきの防護服を着た兵士の声。
「可能な限り武装してくれ。手足の防具も出来るだけ付けろ。噛み付かれた者は数分で変わる。そうでない者も、噛み付かれた時点で自分を戦力から外せ。それが仲間と家族を守る最良の手段だ」
エテューは廊下を進んだ。再度、署長の声が響く。
「これは長い戦いになる。裏口から静かに出ろ。北警察署で合流。そこからこの街を取り戻す」
備品庫で警官達と兵士たちが武装していた。
*
「再装填!」
兵士が叫んだ。
「本当に撃っていいのか!?」
「撃つしかないだろ!」
押し寄せる、狂人の波。通行人を食い上げ、こちらに向かってただひたすら、走って来る。彼らがこちらに到達したら、どうなるのか、本能的に分かっていた。
最初は足を狙っていたが、彼らの速度が落ちることは一切なかった。
「リロード!」
兵士が再度叫んだ。
アンサングもその隣でライフルの弾倉を入れ替えた。震える手で、1分以上かけて、再装填を終えた。
アンサングは無線を取った。
「コウプス、車での移動は可能か?」
「無理だ。駐車場を占拠されている。道もほぼ塞がれてる」
「ヘリは?」
新人からの応答が無い。
「庁舎に上役を迎えに行っている」
「いつまでも持たないぞ」
アンサングの弾倉が再度空になった。
「最終弾倉です!」
無線から一階の兵士達の声が聞こえる。
「頭だ! 頭狙え! むやみに撃っても意味ないぞ!」
コウプスの怒声に続き、鋼鉄のドアが大きく軋んだ。
「グレネード!」
アンサングのすぐ後ろで、兵士が屋上から手榴弾を投下した。アンサング達は伏せた。数秒遅れて、爆発が一瞬通りを静かにした。
「音に引き寄せられてるな」
イウェンが立ち上がり、街を見下ろした。
「キリが無い」
アンサング達が作り出した死体の山を乗り越え、通りには次々と感染者達が殺到している。それに対し、慎重に、下階の兵士達が頭を狙って射撃を続ける。
「これ、全部ダムナグの副作用か?」
イウェンはそれには応えなかった。
「移動するぞ」
イウェンは兵士の無線を掴んだ。
「サイレンサーを持つ者は装着。全員、2分後に手榴弾を持って南裏口に待機。合図投擲し、北警察署へ移動」
「了解」とコウプス。
アンサングと兵士は南階段を降りながら、連射した。感染者達が倒れ、更に大勢の感染者達が壁にぶつかり、アンサング達を笑顔で見上げた。
その額を撃ち抜き、アンサングはライフルを捨て、拳銃を抜いた。
「静かに、頭だ」
アンサング達は一階に降りた。サイレンサーのついた銃とナイフを持った兵士達が裏口に集まっていた。先頭では手斧を抜いたコウプスがノブを掴んでいた。
短刀を手に、イウェンは無線を入れた。
「投擲」
爆発と、一瞬の静寂。屋上の兵士達が音を最小限に降りてくる。コウプスが扉を引いた。
扉の前にいた感染者の頭をイウェンの短刀が切り裂いた。その先に立つ感染者を小さく鋭い銃声と共に銃弾が仕留めていく。
これだけの戦闘と銃声と感染者が通りを埋め尽くしても、まだ大勢の一般市民達が逃げ惑っていた。大通りでトラックとパトカーが衝突し、バスが横転した。割れた窓から感染者達が蛆虫のように這い出てくる。
「交戦するな! 進め!」
コウプスを先頭に、狭い路地に入り込み、イウェンとアンサングが背後を固める。
一人、感染者が路地を追いかけてきた。その体に、部隊員が銃弾を撃ち込む__腹、胸、肩、首、顔、額__弾倉が空になる最後の最後まで、勢いは止まらなかった。
前のめりに倒れた感染者の口が隊員のブーツにぶつかった。
「頭を撃つしかない」
壁を背に、弾倉を入れ替える隊員。
路地の壁が崩れた。南燿特有の土壁が脆くも瓦解した。十人以上の感染者。二人の子連れ夫妻が、血祭りに挙げられる。
部隊の銃弾が彼らを貫くも、感染者達の動きは止まらなかった。
弾倉が落ちると同時に、一目散に、アンサング達は走った。
恐怖が全身を駆け抜けていた。かろうじて、訓練した通り、体の動きは冷静でほぼ自動的だった。
確実に、頭を撃ち抜いていく。子供も、老人も、女も男も、こちらに向かって叫び笑う者達は、撃つ。
背後で、窓が割れた。ガラスがアンサングの額と頬を切り裂いた。感染者が三人、飛来した。
一人は隊員に食らいつき、もう二人はイウェンを押し倒した。
アンサングの銃が隊員側の感染者の後頭部を吹き飛ばした。隊員は喉を食い破られていた。そして痙攣していた顔は笑顔に瞬く間に変わった。
イウェンに銃を向ける。まだ格闘は続いていた。そして割れた窓からは、大勢の顔と手が突き出ていた。
壁と窓枠がひび割れ、歪んだ。
手の銃は空になっていた。
「走れ!」
アンサング達は走った。弾倉を入れ替え、拳銃をホルスターに戻し、ライフルを手に、振り返る。突き出した銃口に、隊員の口が突っ込まれた。
その頭を撃ち砕くと同時に、アンサングのライフルの弾は切れた。感染者の重みで、アンサングは倒れた。背中が壁を打ち、壁は半壊した古屋の内側に倒れた。
しまった__部隊から距離が空いた__ライフルを捨て、拳銃に手を伸ばしながら、立ち上がる。
背後で、何かが壊れた。もう一人、誰かが立ち上がった。そんな予感がした。
振り返りざまに、左手を突き出す。真下から突き出されたナイフが左手を貫通した。
アンサングは相手を蹴り飛ばしながら、右手で拳銃を抜いた。ぐるりと回転するように、相手のもう片方の手がアンサングの頭をかすめた。アンサングの顔が割れた。
血の隙間から、女の顔が、見えた。
銃声。
女も右肩から血を流してひっくり返った。
顔には見覚えがあった__シエラと呼ばれた背広を着た南耀人の女__ライリーの側近。
窓を割って、アンサングは外に出た。倒れながら、引き金を引き続けた。猫のような俊敏さで、女は部屋の扉の陰に転がった。
シエラの弾倉が再装填される音が聞こえた。
「アンサング!」
コウプス達が駆け戻って来た。
アンサングは、拳銃の弾倉を入れ替え、血を拭って再度部屋に入った。
シエラは消えていた。
「大丈夫か!?」
コウプスが素早く左手に包帯を巻いた。アンサングは頷きながら、血を吐き捨てた。
「ライリーの側近だよ…気をつけろ」
「動けるか?」
「行こう」
一行は動き始めた。
狭く長い路地を抜け、大通りに出る。
走る警官達が見えた。そのすぐ横を、明らかに警官でも兵士でもない、しかしながら武装した男女の群れが走っていた。装備は比較的新式だが使い古されていた。
反乱軍。
しかし、彼らが銃口を向けるのは、人間の群れ。庁舎に殺到する、人間の雪崩れだった。
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