結界・決壊
あらすじ
目を覚ましたら、赤いアパートにいた。
外は赤くて、中には、男と、女が一人。
男の手には、ナイフがあった。
どうして自分がその部屋にいるのか、思い出せない。
そして男は、微笑んでいた。
第一話 男
薄暗い、赤いアパートだった。錆びて散らかってて、埃っぽい。
赤いのは、夕日のせいかもしれない。綺麗な夕日ではなくて、なんか、夜が来て暗くなるのが怖くなるような、嫌な光。このアパートのせいかもしれない。落ちかない。乱雑で、汚い。俺の家でないと良いなと、思った。
でも、何より、一つの気づき。
どうやってここに来たのか、覚えていない。
アパートには、俺と、彼女と、男がいる。
彼女は、リビングから見える畳の寝室で、浴衣を着て、寝ている。
男は、青い眼を持つ、背が高い。ブラウンのスーツと革靴がよく似合っていた。中年後半の皺と、白髪。マッチョではなくても、結構鍛えていそうだった。
すーっと、男が微笑んだ。
「綺麗な人ですね」
男の顔が、寝室に向いた。虫唾が走った。底知れぬ怒りも、一気に湧いて来た。男が次にどう動くは分かっていた。
予想通り、男は、丁寧な足取りで、彼女の方に向かっていく。
「おい…」
ひどく喉が渇いていた。この後、男がこのまま進めば、俺はそれを止めるしかない。男が抵抗したら、力づくで抑えるしかない。それが難しいことが、男にはわかっていた。だから男は、あんなにゆっくり、余裕で、歩いていく。
「待てよ」
男は止まらない。
怖かった。何故か、助けが呼べないという情報が、頭を満たしていた。
男はスーツを脱いで、ズボンも下ろした。
「待てって」
男の手が彼女の肌に触れ、襟を掴んだ。
「やめろ!」
吠えた。ついに、大きな声が出た。男の顔が上がった。満面の笑みと、瞳に浮かぶ興奮の色。初めて、野獣的な部分が見えた。
「何だよ」
その顔に、俺は突っ込んでいた。あまりにも自然な程、手には包丁が握られていた。一度力づくになったら、殺すしかないと、頭のどこかで確信していた。
ものすごく、俺は興奮していた。唸るような叫び声を上げていた。
一方で、男は余裕だった。
包丁は刺さらなかった。手首を掴まれた。
男の顔を蹴った。
直後、刺された。腹と、脇腹。肩と首も。刺されて、切り裂かれた。
包丁が手から落ちた。自分もすぐに倒れた。
男は、微笑みを小さく浮かべながら、髪を掻き上げた。
「まったく…」
ため息をついて、男はナイフを俺の首に当てた。
そこで、彼女が起きた。
「え…?」
浴衣の襟首を閉じる彼女。全く現実を飲み込めていない顔。ただ、目と目があった。
俺の視線を追って、男は彼女を振り返った。
その瞬間、俺の手が、男のナイフを取った。
出血のせいか、彼女が起きたせいか、戦闘がひと段落して、自分がほぼ殺されると思ったせいか、頭はすごく冷静だった。
何も考えず、手と体が動いた。
男の足首が切れた。続いて__太もも__下腹__右手首__首__と、ナイフは走り抜けた。
男は倒れた。その胸に、ナイフは突き刺さった。
すぐに、俺も倒れた。彼女の両手が、一瞬の間も置かずに、俺の顔に翳された。
すごく慣れているような仕草と、速度だった。顔も、恐怖に包まれている様子はない。
目と目が、再びあった。
「動かないで」
彼女の言葉を最後に、視界は光に包まれた。
それと同時に、思い出した。
第二話:虫
アパートの最下層に、駐車場がある。コンクリの、薄暗い、自販機の光だけが見えるような、暗い場所。
そこで、俺はタバコを吸うのにハマっていた。親にもバレないし、警備員も殆ど来ない。
ライターをつまんで、ジュースを買うのが日課となっていた。
いつも通り、自販機に小銭を入れた。
爆発。
壁が壊れた。
コンクリの壁が崩壊した。
鼓膜が破れたかと思った。
「うわ…」
悲鳴が、遠くに聞こえた。一気に駐車場は明るくなった。外は昼で、人々が逃げ回っているのが見えた。
なんで逃げてるんだ?
巨大な光の穴の中心に、大きな影が浮かんだ。その影は、大勢だった。
「…え…?」
ガサガサという、嫌な音が聞こえた。
「え…」
それは虫だった。巨大な昆虫の群れ。人よりも大きな、サソリと、アリと、ゴキブリの大群。それぞれに顔があって、口があって、牙が並んでいる。
「ええ!」
ものすごい速さで、彼らは侵入して来る。
足が動かなかった。
あいつらは、床も壁も天井にも、ガサガサと埋め尽くす勢いで進んで来る。
「降伏しなさい」
女の声が聞こえた。
光の影の中心に、巨大な、女の半身が見えた。裸で、下半身は、蟻。その顔と、声は、優しい笑みを、帯びていた。
「降伏して、食べられなさい」
つんざくような悲鳴が聞こえた。
俺は走った。何故かまだ食われていなかった。非常階段を登って、とにかく走った。
「うわあああ!!!」
廊下に転がり出る。おじさんに当たる。
「うわ、何だよ」
そのおじさんの顔が喰われた。隣の親子も、買い物袋持った女性も、バラバラになって飲み込まれた。
「退治屋はどこだ!」
誰かの声が聞こえた。銃声も少し聞こえた。でもそんなの何の役にも立たない事は誰にでも分かった。
心臓が爆発しそうだった。
俺は階段を登り続けた。
「結界は?」
ガサガサという音、悲鳴、砕ける音。
「あああああああ!」
断末魔の叫び。俺は階段を登って、登って、家にたどり着いた。
汚い、散らかった、ただの家。扉を閉める直前に、女の手が、ねじ込まれた。
第三話:無視
退治屋と、結界屋。
このアパートはその2種に分かれる。退治屋は先祖代々、虫型の巨大な物怪を駆除する。結界屋は、物怪達が街に入らないように、結界を張る。退治屋が物怪を駆除するには入念な準備と十分な休息が必要で、死亡率が高く常に人手不足のこの仕事には、結界による絶対安全地区の存在が不可欠だった。
一方で、結界屋も、結界が物怪を防ぐ力には限度があり、物怪が街に侵入したり押し入ったり、時には結果の外に多数発生した時には、駆除が必要だった。
双方共に、秘伝の駆除方法と結界術を共有することはなく、双方の間には独特の緊張感が常に流れていた。
と言っても、退治屋が活躍していたのは大昔・十世代前の話で、当時に稼いだ財産で
アパートの最上階に住み、今は自堕落な生活を送る人間が殆ど。同時に、結界屋は、何故か常に貧乏で、アパートの最下層に住んでいた。常に働き、健康不良で、同時に結界のおかげで物怪が少なく、政府や国民、ひいては退治屋からも、物怪など本当はいない、詐欺商売の疑いの眼差しを向けられている事もあった。政府からの給付金・助成金も減ったと聞いた。
「さっさと駆除してくれよ!」
買い物に行く為、最下層の結界屋の地区を通る度に、退治屋の奴らに詰られた。
「はいはい。言っとくねー」
俺はいつもそう言って、流していた。
彼女が、最近、出来た。
彼女は最下層の、結界屋の出身だった。
第四話:あんたのせい
俺は自分の体を見た。傷は塞がっていた。
「治ってる…」
彼女は、血で濡れた床の上で、ただ座って、俺を見ていた。
長髪の、少し疲れた、痩せた色白い、丸い目の、顔。
綺麗な顔だと、思った。
「退治屋だからでしょ」
声は冷たい。あの蟻女王の方が暖かい。
少し笑って、身を起こす。確実に、さっきの男は死んでいた。きっとあいつも、退治屋。何で男がここにいて、そして俺が色々思い出せなかったのかは、分からないままだった。
俺は彼女を見た。
「大丈夫?」
彼女は頷いた。そして立ち上がって、台所に向かった。その手にはナイフがあった。台所には小さな窓があって、外が少し見える。
まだ悲鳴が、少し遠くから聞こえる。
彼女がナイフをシンクに置くのが聞こえた。
「あんたのせいだから」
その冷たさに、顔を上げた。彼女の後頭部は、動かない。
「あんた達のせい」
俺はそこで、思い出した。
彼女は、彼女じゃなかった。ただ、ここに逃げてきただけ。何日もここで一緒に暮らしているうちに、男女の仲になった。やがて退治屋の男もここに逃げて来て、衝突した。
「ごめん」
俺は立ち上がった。
「本当に、ごめん」
そっと、腕を回す。彼女は振り返った。ナイフは握られていなかった。その俯いた顔と頭を、抱き締める。
「本当に、ごめん」
涙。痛み。アパートは、赤いままだった。