光の花
光の花
凶気
交差点で、タイラーは足を止めた。
周りの通行人の顔が見えなかった。
これは夢だと、すぐに分かった。
隣に、大きな男が立っていた。嬉しそうに話しかけてくる。顔は見えたが、見覚えは無かった。服の上からでも分かる屈強な体で、取っ組み合えば、負けるかもしれない。その声は常識的で大人しそうな印象を与えた。
その男は、タイラーに既に長いこと話し込んでいた。とても楽しそうだった。隠し趣味を遂に語れる人間を見つけたのだろうか。
「これね、ハマってるんですよ」
男が見せてくる携帯。覗き込む。小さな白い光の写真。
「何ですか、これ?」
「僕もね、よく分からないんです。でもね、綺麗でしょ」
「分からない?」
「分かんないんです」
男は指を動かす。タイラーは目を凝らした。真がズームアウトされた。
「え?」
誰かの首元で煌めく、光。ネックレスかもしれない。男は携帯をそっと、他の人に見られない様に、しまった。その、1秒に満たない瞬間に、タイラーは見た。
乾いた声が、タイラーの口から漏れ出た。
「これって…」
冷たい腐葉土の上に横たわる、少し濡れた、青白い小さな体。
頭が無い。
何をどうしたらいいか、タイラーには分からなかった。手足が動かなかった。
男を見上げる。
優しい笑顔が待っていた。
*
目を覚ました。大きく長く息を吐いた。
久しぶりに恐怖した。あれだけカジュアルに語る奴は久しぶりに見た。あそこまで、誰かの死体を、何か楽しいものとして語る奴は初めてかもしれない。検死官や死化粧師でもそんな奴はいないと思う。
そもそも夢だし、あの顔に覚えはない。でも顔と声には見覚えは無くとも、あの死体には見覚えがある。ネックレスにも、頭の切り口にも。
携帯が鳴った。相棒からのメールだった。
「また見つかった。同じ手口」
光輝
「ごめんね」
もう動かない体。それが死体。その死体に、頭は無い。切り取った頭は、死体の横にそっと丁寧に置いている。
「失礼します」
素早く、なるべく早く、速やかに、注射器を取って、針を、首元に刺し込む。これは、ゆっくりと、慎重に。そして、透明な薬液を注入する。一気に。一押しで。滞りなく。
注射器を置き、ルーペを取って、覗き込む。
待つ。辛抱強く、興奮を飲み込んで、ワクワクと、静かに。息がかからないように。死体に余計な衝撃を与えないように。この瞬間を邪魔しないように。
光が見えた。
円形の首の傷口に、光の筋が、微かに見えた。それは、雪の結晶のように広がり、ルーペから見える拡大された視界の中で、仄かな光を放って、花開いた。開花した。広がった。
菌類や木の根が広がるのに似ているかもしれない。稲妻や水の拡がりにも似ているかもしれない。
人によって、この模様と広がり具合は違う。光り方も。
この銀の光の造形は、世界で限りなく、一番、美しい。紛れもなく。絶対に。
ルーペを片手に、メスを取る。
メスの切先で、速く正確に、光の花弁の周囲を切り取る。花は試験管に入る。小さな肉片に蓋をして、立ち上がる。
「ありがとうございました」
後で、写真を撮り、記録し、収納するのが、ロワンは待ちきれなかった。
自然と、歩みは駆け足に変わった。
狂気
「なんでこんな事に」
移民の夫婦。子を失い、タイラーの前で泣き崩れる姿は、どの親も同じ。
「誰がこんなことを」
その問いに、タイラーは答えられない。まだ、今の時点では。
「必ず捕まえます」
タイラーが何を言っても、死んだ命が戻らないという現実は、変わらない。
立ち上がるタイラーに合わせて、父親が立ち上がった。涙を堪え、口元をしばし左手で押さえて、右手を差し出した。
「何かできることがあれば、言ってください」
タイラーの心が、底から震えた。その姿勢と声には、彼の娘への愛情が残っていた。
褐色の大きな手を、タイラーは掴んだ。
*
「頭部切断以外、死体に損傷はありません。性的暴行の跡もなし」
検死官の言葉に、頷いて、タイラーは相棒を振り返った。
「頭の置き方も、丁寧だよね」
ショナは綺麗に切り取られた傷口を覗き込んだ。
「何か、切り取られている?」
検視官が若干嬉しそうにペンを弾いた。
「そうなんです。多分メスで、小さく」
「全て死後だよね」
「はい」
「殺害方法は?」
「麻酔薬で失神させられ、その後断頭されたようです」
「薬物の内容は?」
「大部分が一般的な麻酔薬であるフェブ。あと、ごく僅かな、これは何故か分かりませんが、ドーラと呼ばれる、液体肥料です。判別するのに時間がかかりました」
「毒性があるのか?」
「微量過ぎます」
ペン先が首の切り口に向けられる。
「傷口に注入されていました」
「よく気づいたな」
「少し変色していたので」
「断頭の凶器は?」
「骨まで一気に、損傷なしでキレています。刀か包丁か何か、かなり良い品質の刃物でしょうね」
ショナは首を傾げた。
「頭の置き位置に何か意味があるの?」
一同は首を傾げた。
「儀式的というか、切断は、何かの過程か?」
「多分」
「最悪だな」
もう動く事のない小さな手を、タイラーは握ってあげたかった。
*
「目的は殺しではないのかもね」
ショナはペンで額と首をなぞった。
「殺し、ではなくて、切り取る、つまり何かを集めてる訳でしょ? 何を集めてるのか、どうして集めてるのか、何でなくてはいけないのか? 綺麗に首を切断している事から、何かを傷つけないようにしているのは確か。過去の写真、どう?」
「傷口が粗いものもあるな」
「同じ薬品が出てる?」
「出ている。それで調べてみるか」
遺体から麻酔薬と液体肥料が検出された事件は、全部で一〇件。それらは全て、遺体のどこかが抉られていた。最初の被害者は末期癌を患った老人。指を抉られていた。依然として、被害者達に直接的関係性は無い。
「殺人事件じゃなくて、遺体の損傷報告は無いかな」
「墓荒らしか?」
「有り得るね」
「…検死官か?」
「偏見だよ」
「病院関係者か?」
「それは不安だね」
死体から薬品が検出されたケースをまとめるのは、二人がかりで相当時間がかかった。しかし該当した件数は、殺人事件を含め、五十件以上に昇った。
「薬品、この液体肥料、一体なんなんだ?」
「…やってみるしか無いんじゃない?」
*
ロワンは試験管に、ラベルをつけた。
“三歳児、アジア人移民、女性“
ルーペで拡大されたアルコールの中で、その華は凛と輝き続ける。
「ありがとう」
そっと呟く。吐息で、試験管越しにでも、その華は崩れそうなほど、薄く儚かった。でも、とても長く、早く伸びた。独特の楕円を描き、故に優雅な印象も与えた。
また、唯一無二の花が取れた。花に巡り会えた。花が咲いた。
次はどうしようかと、ロワンは思う。思ってしまう。誰にしようか。どんな人がいいか。リストはある。好奇心のリスト。探究心のリスト。ただ、選ぶだけの作業。
ふと、いつも行っているジムで働いている、女性インストラクターを思い出した。
確か名前は、ジェノ。
二十代前半。アジア人。彼女は、どんな花を咲かせるのだろうか。
奇跡
「…なんだこれ」
その白い花を見て、タイラーは身震いした。顕微鏡で拡大され、スクリーンに映し出された、白く輝く花。遺体の指先の細胞間で花開く、白銀の極小花。
「なんでこんなことになるの?」
ショナの問いに、検死官は首を振るしかなかった。
「有りえないです」
「この会社、連絡して。説明できる人間がいないか聞いてみて。事件の事は伏せてね。あくまで細胞に接触した時、ってだけ聞いて」
ショナの横で、タイラーは笑った。
「これは完全に趣味だな」
ショナも嗤って舌打ちをした。
「大したコレクターだよ」
「まあ、ある種綺麗だけどな」
「つまり殺すのが目的じゃない。殺しはあくまで過程。首を抵抗なく切り取って、そこから生えるこの花が、欲しいってこと?」
「そうだな。だから最初は死体とか末期患者の体の一部から始めてる。でも、この事件から、なんか変わったんだよ」
タイラーは報告書を一枚摘んだ。三年前、ホームレスの遺体が、首無しで見つかった。
「死因は頭部切断ではなく、アルコールの大量摂取による臓器不全と心臓発作。首が切られたのは死後二日後。首都南区酒場マケルスの路地裏で倒れたのが監視カメラに映ってる。3時間後、レインコートを着た奴がその死体を拾って、一週間後、山で発見された」
「なんで二日後なんだろうね」
「迷ったんじゃねえのか? 頭切るの」
「変態のくせにね」
「見下したって捕まえられねぞ」
「子供、だよ? 子供を…」
タイラーは頷いた。
「こいつ、多分、殺意が無い」
どちらかというと科学的な好奇心と探究心しかない。罪悪感はあるかもしれない。
これはどんどん悪化する。
故に、絶対に、止めなくてはならない。
*
「一人、開発に関わった人間がいます」
ドーラ薬品開発部の部長が、暗い表情でこぼした。
「今はもう連絡が取れませんが」
タイラーの胸中は踊り狂った。
「どんな人でしたか?」
「勤勉で、頭も良く、同僚との会話が上手いことで有名でした。聞き上手だった様です。好奇心が強くて」
タイラーの隣で、ショナの心が踊るのも聞こえそうだった。
「薬品はどこでも手に入りますか?」
「はい。売上も良いと聞きます」
タイラーは白い花の写真を取り出した。
「このようなものに、見覚えはありますか? もしくは、何かの話題など」
部長は首を傾げる。
「…花、ですか? これは?」
「ご存知ない?」
「いえ、すみません」
「話題に上がったこともありませんか?」
「いえ」
「その方の退職理由は?」
「自分のしたい事に集中したいと」
「なるほど。ありがとうございます」
タイラーとショナは立ち上がった。
「名前、住所と連絡先、緊急連絡先も教えてください」
*
見つけた。次の課題に一番適した人材。ロワンの心は踊った。罪悪感は彼方に薄れ、今はもう、次の、近所のジムに通う女性の家に侵入する方法しか考えていない。
その歓喜の仕様に、少し内心驚いた。
これでいいのだろうか? 他に方法はないのだろうか? 他に誰かいないのか?
他の候補は、もう全て試し、採集し、ログしてしまっている。思いつく限り、
同時に、別の思いもある。
この辺りで休憩し、研究し、結果をどこかに匿名で発表したい欲求もある。ネットのどこかのページで。
でも、そうしたらきっとバレる。微量でも、死体からドーラは検出できる。どんなにドーラは売れているとはいえ、ここまで定期的に睡眠薬も購入していたら、いつかはバレる。買う場所も時間帯もなるべく変えているけど、いつか自分は、捕まる。
怖かった。見つかりたくなかった。自分は快楽殺人者ではなかった。
ただ、なぜか、本当に、あの白い光が忘れられなかった。
*
見つかったかも、とショナが、A4大の写真を机に落とした。
「体格、結構いいね」
監視カメラの映像写真。ジム。
「お、どうやって見つけた?」
「携帯の移動経路から、ジムに定期的に行ってるのが分かった」
「張り込みは?」
「ハーディとテリーがやってくれてるよ」
タイラーは立ち上がった。拳銃と予備弾倉を確認し、階段を降りる。
「クレジットカードに薬物の販売記録は無し。俺も携帯の移動経路を見たんだけど、薬局に定期的に通ってた。異なる薬局だけど、支払いは全てキャッシュ。購入物は、色々混じってたけど、麻酔薬か、液体肥料」
「決まりかな?」
タイラーはノートをショナに渡した。
「親と知り合いと話した。極めて普通の人。高校まで卓球部。社会人一年目にできた彼女と別れて以来、ずっと独り身。でも孤独な感じは無い。暴力的傾向も無し。喧嘩は中一の時、修学旅行で一回だけ。人一番強いのは、好奇心だってさ」
「どこかで何かがずれたのかな?」
「あの花だろ。ハマっちゃったんだよ。多分」
「ハマるって、そんな突然」
「いるじゃん、コマーシャル見てキャリア変える人」
「いないでしょ」
「まあ人の心変わりは証拠にはならない」
「まあまずは話を聞いてみないとね」
ショナが車のエンジンをかける間、タイラーは無線を取った。
「ロワンと距離を保て。現行犯で捕らえたい」
*
準備は整った。後は、あの女の人が一人になるのを待つだけ。いつ来るか、いつ帰るか、どうやって通うのか、全て調べて、覚えた。薬の量も、車の位置も、実行場所も、全て考え、練習し、シナリオをいくつも練った。
女のエクササイズが終わるのを待ち、家までつけて、扉が開いた瞬間に、口を押さえる。麻酔薬が効くまでの間、床に倒れ込み、声を出さないように、押さえる。それで失敗した事はなかった。アパートだから、通行人も少ない。一度入ってしまえば、疑われる事は無い。仮に失敗したとしても、廊下から飛び降りて、大通りの人混みに紛れて、電車に乗って逃げられる。
女のアパートに入るまで、何も起こらなかった。不用心過ぎるほどに、女は一人で、音楽かポッドキャストを聴きながら、家の玄関を開ける。
ロワンは忍足で、走り込んだ。
女の扉が閉まろうとした。
手を伸ばす。女が振り返った。その口を、手袋が掴んだ。
悲鳴が、麻酔薬の中に消えた。
ズドンっ。
鋭い音。廊下が震えた。腰を抜かした。
照明が落ちた。粉々に砕けた。
倒れて、それが銃声だと気づいた。
女か? いや、女も倒れていた。ようやく、叫ぼうと口を開けている。
そこで気づいた。警察。考えていなかったのは、警察の追跡だった。震えた。漏らしそうだった。
「うわ…」
ロワンは立ち上がった。
「おら待てや!!!」
再度の銃声を後に、ロワンは廊下から飛び降りた。
*
右手を撃たれながらも、ロワンは逃げた。ショックでまだ痛みが出ていないのかもしれない。
「やるな、あいつ」
銃をフォルスターに入れ、無線を手に、タイラーも廊下から飛び降りた。ショナが背後で、女を助け起こしていた。
「全部隊に告ぐ。距離を置いて、包囲しろ。大通りに向かうはずだ。そこで待て。俺が一人で接近する。制服は気付かれる」
不満そうな同意が無線から聞こえた。
「大通り、もうすぐ入りそうです」
「了解。指示を待て」
弾倉を入れ替えて、タイラーは走った。
*
迂闊だった。ついにバレた。バレるに決まっていた。なんでこんな事を始めたんだ。何で我慢できなかったんだ。
右手の痛みが酷かった。刑事は冷静そうで、戦えば負けそうだった。他にも警官はいっぱいいるはずだ。電車には乗れない。でも、人混みには入った方がいいかもしれない。
パニックだった。弱く、怯え切っていた。怖かった。捕まりたくなかった。でも、逃げて、速く走って、人ごみの中で冷静にいれば、助かるかもしれない。バレないかもしれない。捕まらずに済むかもしれない。
家に戻らず、何とか日雇いの仕事で金を作って、パスポートを作って、海外逃亡して…花の発表は出来ないし、親も心配するかもしれないけど、時効になれば、いや、時効の前にも、隠れ続ければ、何とか親に会う事は出来るかもしれない。
何とかなる。生きていれば希望はある。
研究資料も、警察が発見すれば逆に発表されるかもしれない。あの奇跡が公表されるかもしれない。あの美が世界に知られるかもしれない。それはそれで、いいかもしれない。
少し落ち着いてきた。走りを緩める。落ち着け。大丈夫だ。きっと上手くいく。
人ごみに入った。金曜の夜というだけあって、十字路の前で、人はいっぱいだった。
「いいぞ」
呟いて、帽子を深く被り直して、大きく、長く、静かに息を吸って吐いた。
まだ、大丈夫だ。きっと大丈夫だ。
信号が青に変わった。
*
交差点で、息を切らしながら、ロワンは足を止めた。それを見届けて、タイラーは無線を取った。
「全員、ここで待ってくれ。奴に暴れられたら困る。拳銃なるべく使うなよ。繰り返す。殺すな。まだ知られていない犯行があるかもしれない」
無線をしまい、電源を切って、タイラーは人混みを進んだ。距離を縮めるタイラーとロワンを囲んで、警官達が少しずつ輪を狭める。
ロワンの後ろに立って、タイラーは、その体格が思ったよりも屈強だと、改めて思った。
「すみませ…」
言い終える前に、ロワンが回った。
タイラーの右手に、ロワンの手がぶつかった。銃が落ちた。右手が切れた__ナイフ__ロワンの長い手が、首に伸びた。
それを左手で弾き落とす。
ナイフがタイラーの太腿に刺さった。タイラーはそれを固く掴みながら、前に出た。
頭突き。
よろめくロワン。泡を吹く口と大きな顎に、右肘を打ち込む。ロワンの手からナイフが抜けた。ナイフを太腿に刺したまま、ロワンの右手と襟を、タイラーは掴んだ。
ロワンの拳が動いた。それを、タイラーは待ちに待っていた。
ロワンの大きな拳を、額で受け止めた。折れる指。その指と手首を掴んで、肘を肩で持ち上げる。ロワンの体が浮いた。
タイラーは地面を蹴った__宙で、二人の体が回った__地面に落ちると同時に、ロワンの肘が折れた。
他の警官が走って来るのが見えた。
タイラーの足を、ロワンの大きな右手が掴んだ。その手首掴んで、膝を打ち込む。手首が曲がり、ロワンの顔が痛みで歪んだ。
「お前、大した事ねえな」
タイラーの拳が、ロワンの顔を砕いた。
「弱いよ。本当に」
ロワンの手首を掴み、足に刺さったナイフに乗せる。
「刺さないでくれよ」
タイラーは、殴り続けた。何度も。ロワンの歯が折れて、顎が割れて、目が潰れるまで、打ち込む。
視界が突如落ちた。
顔の痛み。ロワンにやられたか? 違う。
「バカじゃないのあんた」
ショナの声。顔を蹴られた。成程。
他の警官に取り押さえられながら、タイラーは立ち上がった。ショナがロワンを転がし、手錠をかけた。タイラーは太もものナイフを引き抜いた。
ナイフが転がり、血が吹き出た。その血がロワンに降り掛かった。ロワンが動くことは、もうなかった。
好奇
「スムーズに解決したな」
上司の言葉に、タイラーは頷いて、姿勢を正した。
「もっと早く見つけているべきでした」
「そうだな」
上司はファイルを見つめ続けた。顔面を潰されたロワンの写真。
「喜びたいところだが、問題にはなるぞ」
「そうですね」
「まあ、自供はしているから、何とかなるだろうけど。お前も刺されたし。でもわざと刺されただろお前」
「いえ、そんな事は」
「笑っていただろ、あの時」
「いえ」
上司はファイルを閉じた。
「ご苦労だった。ショナも…」
「ほぼショナの手柄ですよ」
頷く上司を後に、タイラーは部屋を出た。
階段を降り、廊下を進み、帳簿に名を書き入れ、扉を開ける。
鏡窓の向こう側に、ロワンとショナが座っていた。手錠は外されていた。目と口以外の全てを包帯で覆われ、じっとしているロワンと、資料を静かに見つめるショナ。
「よくまとめられてるよね」
そういうショナの言葉に、嫌味は無い。いつもショナはそうやって、犯罪を犯した者達と一緒の空間に座って、偏見を持つことなく会話をする能力を持っていた。
「綺麗だよね」
純粋なショナの言葉に、ロワンの目線が上る。ショナは本心から言っている。
タイラーはファイルを開いた。
確かに、ロワンの集めた「花」が、被験者の人種や体格、もしくは大きさや形で、カテゴリー付けされ、見やすく分かりやすくまとめられていた。エクセルでも使ったのか。デジタル化もしっかりされていた。
「最初に液体肥料の効果を知ったのは、いつ?」
「僕自身です」
「自分の傷に、気付いたんだ?」
「はい」
「驚きだよね。綺麗だよ、ほんとに」
「…はい」
「このリスト以外に、誰かまだいる?」
「いません」
淡々とショナは質問を続ける。その冷静さに感心する。同時に、タイラーが容疑者をめちゃくちゃにしたから、ショナが冷静に、確実に、取り調べる機会を逃がさないようにしている。罪悪感にかられる。
犯人が捕まったら、人は大体興味を失う。万が一、無罪判決が出た時以外、大体気にする人はいない。
何度も見直したファイル__ロワン__親身にショナに答える男。中流階級と言える家庭環境で育ち、塾に通い、興味のある事を大学で学び、職に就き、女性と交際し、別れ、中年独身男性らしいアパートに住んで、特に目立つ言動も業績も無く働いて、税金を払い、飲み会に参加し、生きていた。
「…最初は罪悪感にかられていました。でも、だんだんと慣れてきて、それにつれて、好奇心が増してきて、探究心とも言うのかな。使命感にも近いものがありました。目の前の奇跡を、保存して、記録して、追求する事に情熱を感じました」
「犯行を続けたなら、最初から好奇心は強いと思うけどね」
「そうですね。確かに」
「でも確かに、あの光は、奇跡に近いものを感じるよね」
「はい。突然、本当に突然現れたんです」
「運命的だね。理由はない」
「正にその通りです」
「証拠さ、あの花達ね、冷凍保存できるか分からないんだよね」
「え?」
「普通さ、いや、こんなケース前代未聞だからさ、花をどう保存したらいいか分からないんだよ」
「冷蔵庫に入れれば、大丈夫です」
「伝えとくね」
ショナはペンを置いた。
「色々答えてくれたけどさ」
ノートを閉じて、ゆっくりとロワンに柔らかい視線を向ける。
「なんか、夢を語るみたいだね。自分が見た不思議な夢を語る感じ」
少し考えてから、ロワンは答えた。
「人生、平気だったんです。孤独で辛い時もありましたけど、トラウマになる程じゃない。ある意味、本当に普通だったんです」
タイラーが見る限り、頭の悪い人間でも、狂信的な性格も無い。殺人をたくさん犯すような人間は、往々にして、普通の部分が多い。だからこそ、一般社会に溶け込んで、犯行を続ける事が出来る。性格の1%だけが、おそらく生前から壊れていて、それを実行する環境か勇気が携わってしまった場合、連続凶行が起きる可能性が、一気に増える。
「普通、ね」
ショナの着目点に、タイラーは同意する。
普通だからこそ、目の前で奇跡が起きた時、ロワンは目覚めたのかもしれない。本人が気づいていないような、殺人を犯してでも追求する怪物的好奇心の存在にスイッチが入ったのかもしれない。
ロワンをボコボコにした時、タイラーの暴力的欲求の箍は確実に外れていた。外したと言っても良い。あえて刺されて、ロワンという怪物を合法的に力で破壊してやろうとする自己内の怪物を解放しただけ。
タイラーは、普通ではない。普通の所があるだけ。
普通の人間が、奇跡を前に、殺人を始める。珍しい事ではない。特に、奇跡を求める時。今回は、奇跡が起きて、それを記録する為に、一人の真面目な男が、罪悪感と共に、続けた。
趣味の追求。興味の追求。悪の追求。
それが最後は、ジムインストラクター。
フンっと、少し笑ってしまった。
今回も、また、凶行に出た人間に、どこか共感する事で接近できた。
タイラーの趣味が格闘技なら、敵をどう倒すか、どのような洗練された技巧で、どのような状況下で、ここ独自の美意識とモラルの下、暴力的欲求を満たし、技術を向上させる。
「バカじゃねえの」
タイラーは署を出た。
夕暮れ時。
通りを歩いて、人混みに入る。
ネオンが光り始める。
みんな、普通に見えた。
完
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?