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日本エンタメ金融の四半世紀

過去に日本でも、エンタメ・コンテンツ産業の金融に本気で取り組んだ人たちがいました。

その代表格は、1998年に通産省(現・経済産業省)の研究会から始まった、「ジャパン・デジタル・コンテンツ信託(以下、JDC信託)」でしょう。
(先日のnoteでも少し触れました。)


JDC信託の栄枯盛衰。

JDC信託は、トヨタやNTTデータ、大手商社等の錚々たる大企業を株主として1998年に設立、2000年に東証に上場、2005年には日本で最初の信託会社の免許を取得し事業を拡大した、いわば半官半民のベンチャー(今で言うならスタートアップ)でした。

私は2年ほど前から、このJDC信託について詳しく調べるにつれ、
「日本にここまで本格的な産業金融の試みがあったのか。」
と驚きを隠せずにはいられませんでした。
また更に驚くべきことであり極めて残念なことは、その軌跡と蓄積が、現在の日本の業界にほとんど残っていない(ように見える)ことでした。

というのも、
JDC信託は2009年に金融庁による行政処分で信託免許取消、上場廃止、事実上の事業停止と、悲惨な最後を迎えています。

残されている限られた資料を辿ると、
2005年の金融審議会にて、元JDC信託社長の土井氏が使われた以下の資料などは、当時JDC信託がどのような方向を目指そうとしていたのかが、よく理解できます。

https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/siryou/kinyu/dai2/f-20051129_d2sir/02.pdf

同じく土井氏の著書も、当時の知見が多く詰まっています。
(金融の知識が多少がないと難しすぎるでしょうが・・・)

どうしてこのJDC信託の仕組みは一切定着しなかったのか、どうしてJDC信託はこのような終わり方をしてしまったのか、といった様々な疑問は、
私が目指す事業の実現性を高める上で、最も大切なヒントであるように感じました。

そこで私はまず、この知見をお持ちの皆様から学ぶところから始めることに決めました。


韓国「映画ファンド」の発展。

話は変わりますが、
韓国でも、1990年代後半にエンタメ・コンテンツ産業の金融は大きな変革期を迎えていました。(マクロ的にはアジア通貨危機の影響も大きかったようです。)
特に映画産業は、韓国映画振興委員会(KOFIC)が旗振り役となり、政府が制作資金のサポートを行っただけでなく、いわゆる「映画ファンド」の仕組みを積極的に導入しました。

私は今年、韓国ソウルで、当時韓国で第1号の映画ファンドを設立された映画プロデューサーの方とお話する機会を頂きましたが、
国の支援があったとはいえ、第1号ファンドの組成は苦労も多かったそうです。(金融の世界では、トラックレコードがものを言うことが多いのです。)

それから25年以上の月日が経ち、今では韓国では30以上とも言われる映画ファンドが存在し、常に次のヒット作を生み出すため、切磋琢磨をしています。
当然、プロデューサーが最初に資金調達の相談しに行く先も映画ファンドであり、韓国ではこの金融の仕組みが完全に定着しているといえるでしょう。
そしてその仕組みが、この25年の韓国映画業界の発展に大きく寄与したことは、言うまでもありません。


なぜJDC信託は存続しなかったのか。

もちろん、25年前の日本と韓国では様々な相違点がありました。
国内市場規模が比較的小さく、最初から海外展開にターゲットを絞っていた韓国に対して、
日本の映画産業は歴史も長く、市場規模も大きく、事業の形態や成熟度が大きく違っていたといえるでしょう。
その点で、日本では韓国のような外部資本を使ったファンド方式ではなく、役割(窓口権)を持った(基本は日本国内の)事業者が出資リスクを分け合う、製作委員会方式(任意組合なので金融ではない)が90年代後半以降広く普及したことも、自然な流れだったのかもしれません。

ただ、もしJDC信託のような業界を跨いだ挑戦が、もう少し存続し定着していたら、もう少し意味のあるインパクトを残していれば、
コンテンツ業界にとっても、金融業界にとっても、見えていた景色が多少は変わっていたのかな、とは思います。

ちなみに、定着しなかった理由は、
「回収ができなかったから」
の一言に尽きると思っています。
もちろん、それが簡単ではないこと、難しい理由がたくさんあること、は重々承知の上です。
但し、金融商品として展開する以上、トラックレコードがつかないと定着はしません。
(あえて付け加えると、人的要因や、リーマン・ショックといったマクロ要因も多分にあったと推測されます。)

私はJDC信託に当時関わった関係者はじめ、多くの方々の生の声を伺い、分厚い契約書を譲り受け、一部はみずほ証券とも細かく分析し、
どうすれば投資家は回収できたのだろう、
どうすればこの仕組みが残ったのだろう、
何が足りなかったのだろう、何が余計だったのだろう・・・、
そんなことを、たくさん考えてきました。

そしてその過程で、
当時の関係者の情熱と行動量、この新しい金融の仕組みを根付かせるための様々な努力の片鱗を、知ることができました。

世界に出るための「産業金融」とは。

さて、間も無く2024年が終わり、2025年が始まります。
私が目指す産業金融が向き合うべき課題は、25年前と全く変わらないことも多いです。(そのくらい進歩がないともいえます。)

一方、変わったことが多いことも確かです。
もっともっと、日本のコンテンツは海外に出ていくでしょうし、その流れは止められないでしょう。
市場や消費方法が大きく変わっているのに、資金調達手段だけが変わらない、なんてことはあり得ません。
だからこそ、時代に即した新しい金融が必ず求められているし、
誰かが(そう、かつてのJDC信託のように、)真正面から挑戦しなくてはいけない領域だと、私は信じています。
トラックレコードは、誰かが作らないと、何も始まりませんから。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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