ツバメの来る日 第2章 見合いと恋愛
(前章までのあらすじ ~ 市役所職員の青木は福祉課に転入する。出身大学の会合でかつて袖にした敬子と再会して気まずい思いをする。心中では大学卒業とともに別れた意中の女性万里と一生会えないことを想像して悲しくなる。失恋などを友人秋山と語り合う。職場では美人の由美に気持ちが傾倒する。実家の縁談で容姿の整った英子と会い、デートを重ねる。過去の恋愛の対象の女性たちを回想し、恋仲になれなかったことを残念に思う。母や仲介者の反応を見ながら、結局英子の件は断る。職場では、青木の本心も知らず周囲が次から次へと見合い相手を紹介する。結婚相談所の紹介である女性とデートする。見合いで酒を飲むなんて言う相手はやめてしまいなさいと親に言われた女性はすぐに帰ってしまう。)
青木の日常生活は時代の風俗に染められていた。レンタルのアダルトビデオを適当な間をおいて、借りては返した。携帯用音楽プレーヤーをイヤホンで聴きながら、何かの用事を足した。
囲碁、将棋の通信講座を受けた。ゴルフの練習と本番のプレーを仲間と一緒に楽しんだ。株式の投資をして一喜一憂した。
自分がむしろ晩婚を望んでいるのは、こういった日々の楽しみのせいかもしれないと青木は思うことがあった。
7月の土曜日に、青木は実家から呼び出されて行ってみた。母親を車に乗せて買い物を手伝うと、また見合いの話を始めた。一度世話をしてもらった人から、どこかの学校の教頭に娘が3人いて、堅い仕事の人を探しているから、ひとりずつ順番でもいいから会ってくれなんて、冗談交じりの話が来ているという。
ある日の夕方、青木が帰宅してみると、母親の置き手紙があった。見合いを青木から断られたのに、部屋に来て、買ってきた食品を冷蔵庫に入れ、ご飯を炊き、掃除をしていったらしかった。
別の日に、母親は青木に見合い写真を見せたが、見合いはしないといったら、引き下がった。
8月に入り、ある日の昼休み、青木は久しぶりに市役所前公園で、長雨のあとの晴れ上がった空と木々をみあげた。好きな歌手の曲をイヤホンで聞き、幸福な気分になったり不幸な気分になったりした。
恋愛の渦中にあったあの頃を思い出した。恋愛経験を重ね、人生経験が重なり、深まり、人間はそうやって年を重ねていくのかもしれないと思った。
結婚するより恋愛する方が自分は好きなのかも知れないとも思う。31だが、まだ結婚せずに、若くてきれいな女性を何人も友だちにして、自由気ままに娯楽や趣味で遊んでいたい気がする。親も周囲の人間も、結婚しろとうるさく言わないで欲しい。もっと夢を見ていたい。
そのうち今度は、上司の課長補佐大塚が見合いの話を持ってきた。よせばいいのに、またか、と青木は思った。
世話好きそうな人柄に見えたから、予想はしていたが、そのとおりに持ってきた。大塚のような中年の勤め人のところに、知り合いの誰かから、うちの娘の嫁ぎ先にいい相手はいないかと相談が来る。話題の矛先が向かった独身男のひとりが、おおかた自分辺りなのだろうと想像した。青木に職場には未婚の男性は少なかった。一方で、多分、自分自身は将来、そういう中年男にはならないだろうと思った。結婚はまず、本人の意志に任せようという考えを持っているからだ。
内心で、見合い話は掃いて捨てるほど来ていると言いたかった。しかし、青木は答えておいた。
「今、休業中です。家の方にも、ひとつ来てますから……」
10月の休日、青木は自分の車の中にできた日溜まりで、身を横たえていた。外は温かく、窓ガラスから陽光が差し込んで、車の中も暖まる。しばらくの間、青春時代の仲間たちや出会った女性たちを思い出した。
町中の歩道を歩き、ホテルのレストランで食事した。大通りのDCブランドのブティックを、おしゃれをしようと思いついて、気の利いたスカーフを求めて歩き回った。若くてきれいな女性が時々いる。容姿が整っていて、大人っぽい女性、顔の幼い、可愛らしい女性。色の白い女性。脚の形が良くて、体が細い女性。
気に入っている夏の高原の観光地を思い出す。その別荘地の森林の中でしずかなひとときを過ごしたいと思った。
青木の所属する福祉課で、アルバイトの女性が雇用期間が切れて退職し、その送別会があった。居酒屋の談笑の中で、若い仲間たちの口から、由美の話題が出た。
一方に「突っ張り娘だ」という声があり、他方に「市役所一の美人だ」という声もあった。
青木は平静を装って、その会話を聞いていた。何年も前に、別の女性、あの万里を好きだったときも、自分が万里の噂を仲間たちがするのを黙って聞いていたことを思い返していた。
退職する女性は、東京にまた出て行って、学生時代のようにひとり暮らしで勤めを始めるらしかった。
その女性は、別れ際に青木に向かって言った。
「じゃあ、頑張ってください」
それを聞いていた、まだ雇用期間が残っている女性が、横合いから笑いながら聞いた。
「何をがんばるの?」
アルバイトの女性の多くは、職場で機会があれば生涯の伴侶を捜そうと心がけているようだった。青木は独身の自分を、彼女たちが日頃から意識しているように感じていた。
青木は、仕事が終わり夕食を食べに寄った回転寿司の店で、由美に似た女性を見て驚いた。しかし、別人だった。どうやらひとりの女性を思い詰めると、他の女性の風貌に、その面影をかいま見てしまう機会が多くなるらしいと、自分の感覚を分析した。
青木はは、由美との恋をできれば失敗に終わらせたくないと思った。今までの恋の失敗の経験を生かそうと思い、声をかけるにも慎重になり、容易に行動を起こせずにいた。思い詰めていたせいで由美の夢を見ることがあり、ときどき恋人として抱き合いたい、できれば肉体的に交わりたいと思った。
職場では、コピー機の前で由美と、二言三言言葉を交わすことがあった。
「先にやっていいですか?」
「多いんですか?」
その程度のやりとりだったが、青木にとっては貴重な会話だった。
休日に訪ねてきた母親は青木に言った。
「見合いがいやなら、早く自分で相手を見つけて恋愛するようにしたほうがいいよ」
そのうち、総務課の職員数人と、仕事のつながりで酒を飲む機会があった。その席で、由美の話題がまた出て、青木は会話は耳に入ったが、言葉には出さず平静を装った。青木のすぐそばにすわる女子職員は、青木が由美に惹かれていることに気づいているようだった。
年末になり、高級ホテルで行われたパーティーに、青木は半ば惰性で、こりもせずに出席した。
最初の女性は教員をしていて、そばかすが目立ったが、背が高くて美人だった。相手を選んでいる様子が見えた。大人っぽいが、少し年増だったのかも知れない。
一方、姉妹で出席している女性たちがいた。姉の方は、その日のイベントでベストドレッサーに選ばれた。妹の方がきれいだったが、青木は断られると思って希望しなかった。
容姿は悪くなく、気軽に話せる女性がいた。彼女は青木の勤め先に、仕事で何度か足を運んでいて、その様子を知っていた。
「職場にたくさん美人がいるんだから、そこで見つけたら?」
「でも、縁がないとねえ」
その彼女が、後で青木を希望してきたのは意外だった。自分からは希望は出さず、男性の出方を待っている女性のように見受けられたが、そうではなかった。しかし、青木は交際する気にはなれず、断りの返事を出した。
最近のパーティーへの出席は、青木にとって本気半分、遊び半分になっていることが実感された。そうは言っても、血眼で将来の伴侶を捜し求めていては、息が切れる。ほどほどに真剣に、ある程度息を抜いて活動するのが良さそうだ。事実、女性の会員の中にも、こんな風に公言している人もいた。
「私、半分は楽しみで来てますから……」
その日、青木は秋山の失恋話を聞いた。
秋山の家は山のすそ野にあった。その頃は、隣町の市役所に、毎朝電車で通っていた。駅まではバイクを走らせ、田畑の間をくぐり抜けていった。いつの頃からか、同じ電車に乗り合わせる若い女性を意識し始めた。それがある日、腹を膨らませていることに気づいた。太ったのではなく、妊娠していると分かった。秋山は動揺し、うつむくしかなかった。淡い恋心は、その時消えた。百年の恋が冷めた。
今年はクリスマスから年末の時期に上京し、秋山と第九のコンサートを聴いて、高級ホテルに泊まる。酔狂で思いついた秋山との一流ホテル泊まりが続いている。大晦日の前日、秋山と1年の語り納めをした。
いつの頃からか、青木のところに、ベルが鳴って数回で切れてしまう怪電話がかかり始めた。友人の秋山に確かめたら、違うと言った。
青木は母の電話で起こされた。見合いの話で、また口論になった。母はアパートに来て掃除した。
翌週、母は先週の喧嘩に懲りず、看護婦をしている美人だという女性の写真を取り寄せたらしい。
青木は、この頃、見合いしてもどうせ話はまとまらないだろうと思って断ることが多い。勤め先の人はそれで引き下がってくれる。しかし、親は心配で夢中で動き回り、勝手に人に頼んで見合い話を持ってくる。嫌になってしまう。
一方、そんな状況で見合いして断ったあの英子を、ふと思い出した。器量は良かったし、違和感の少ない相手だったのに断ってしまい、申し訳ない気持ちとわずかな未練を覚える。
数日後、青木は看護婦の写真を、実家に行って見てきた。器量は普通だが、父親などは青木の気も知らないで、一方的に言う。
「これで決めろ」
青木は言い返す。
「とんでもない。嫁のことは親の言うとおりにはならないよ」
それぞれの言い争いになる。がちゃがちゃごちゃごちゃ、また始まる。
青木は、自分は今、幸せなのだろうと思う。時々、親から見合いしろ、結婚しろと小言を言われるが、毎日、新築のアパートで優雅に独身貴族の生活を送っている。
毎日の生活が楽しい。職場が変わり、住まいは実家からアパートに変わり、人間関係が大きく変わった。新鮮な気分を味わっている。
自宅から駅まで毎朝、毎晩、歩いている。近頃、少し空気が暖かくなってきた。週に1回くらいは自動車で通勤する。
青木の生活は、新しい職場に替わって1年が経ち、元号は昭和から平成に変わった。
由美のことに関しては、職場は周囲の目を気にしなければならない、恋を進展させるのは面倒な空間だと思った。人間関係のしがらみを感じた。
秋山と会って、尋ねられて重い口を開いて、由美のことを話した。青木の真剣な表情を見た秋山は勧めた。
「そんなに気に入っているんだったら、彼女に思い切って声をかけた方がいいんじゃない」
そのうち、青木と由美を一気に接近させる機会があった。
福祉課には、あちこちの職場の若いアルバイトに目配せをしている、気の多い中年の職員がいた。その男は、由美も含めた総務課のアルバイトたちが魅力的なことに目を付け、青木の同期の村山に飲み会を設けてくれるように頼んだ。
「どうだい、一緒に行かないかい?」
中年男は、青木もその席に参加するように声をかけた。確かに、福祉課の女性たちより総務課の女性たちのほうが、一般的に見て魅力はあるようだった。
しかし、福祉課の女性たちは、すぐそばで男性陣の企みに聞き耳を立てて、薄ら笑いを浮かべていた。その中には、日頃から独身の青木に興味を抱いているように見えた女性もいた。彼女たちの視線を気にして気まずくなった青木は、苦笑しながらその場で、その誘いを断った。しかし本当は、内心では由美が他の男と酒の席で一緒にいるのを見たくなかった。
「でも、知らないですから……」
「自分から話しかけていかなかったら、いつになっても知り合うことはないよ」
中年の男は青木の顔を見た。そんなことは言われなくてもわかっていると、青木は思った。もしかしたら、由美のことを念頭に置いて、そう言っているのかもしれない。
「まあ、今のところ男と女、3対3なんだけどさあ……」
「それじゃあ、ちょうどいいじゃないですか」
中年男は間を置いた。
「よし、分かった。機会は与えた」
そう言って、その場を去った。
その男は日ごろから高飛車な物言いをするところがあった。お前のためを思って、声をかけてやったんだぞ、というような感じだった。青木は、惜しいような気がしたが、まかれた餌に食いついていくようで、余計なお世話だと感じた。
青木は実家に、仕方なく自分の身上書と写真を持っていった。最近は、母親ばかりでなく父親も、夜中、青木の結婚問題が心配で眠れないという。両親は心の中で泣いている。どんどん年をとる。ところが、残念なことに自分は、結婚しないでも平気でいられると青木は感じる。
その日、青木が電話すると、秋山は留守だった。高齢の秋山の母親が電話口に出た。
「いつになっても結婚しないんですよ。早く結婚するように言ってくれませんか。お願いしますよ」
泣き出すような声で頼まれた。
青木は思った。自分の母親と同じだ。いずこも同じか。秋山の父親は数年前に亡くなっている。母親は、言うことを聞かない息子に手を焼いているのかもしれない。気持ちは分かるが、うまく応えられない。自分の嫁も決まらないのに、友人の嫁のことまで世話を焼く余裕はない。
秋山も自分も、結婚に対する考え方が、親とまったく違う。自分たちは、時期は少し遅れても良いから、愛し合える女性と巡り会ったときに結婚を考えたいと思っている。しかし、親たちは、年を取ってしまうから、時期遅れにならないうちに、えり好みせずに、適当なところで嫁をもらって落ち着いて欲しいと望んでいる。
うんざりする。どこかに逃げ出したい。結婚の問題のないところに行きたい。
その後、秋山は、その当時の見合いの相手と2回目のデートを終えて、終止符を打ったと報告してきた。
おれたちの将来はどうなるのか、と青木は思った。
実家の見合いを受けた。看護婦の女性と会って話をした。この人にはその気になれないと感じた。親には、いい返事は出来なかった。
2月の下旬、青木は今度は、都心の高級ホテルで行われた結婚相談所のパーティーに出席した。
最初の女性は、青木と同じ北関東に住み、目が大きくて二重で、少し魅力があった。2番目の女性は東海地方に住み、そこの短大を出ていた。鋭い顔つきの女性だった。
「明日は、東京に来たついでに○○○に行くんです」
と言って、話題によく出る有名なテーマパークの名を挙げた。
北関東の女性はもう一人いて、目鼻立ちの整った色白の女性だった。この女性とは、帰りに利用する鉄道が同じだったせいで、ある駅ビルのデパートで偶然、再会した。美形のため交際を希望したが、予想通り断られた。
民間のテレビ局のアナウンサーに出会い、驚いた。あか抜けた雰囲気を持っていた。それでいて、嫌みを感じさせなかった。実際に番組に出ているらしかった。テレビ画面で見たことがありそう気はしたが、どの人だったか、はっきりとは思い出せなかった。
「あなただったら、こんな会に入らなくても、相手はいくらでも見つかるでしょう?」
青木は笑いながら言った。
「でも、出会いというものは、なかなかうまく行きませんから…」
一方、吹き出物の多い女性がいた。話していても、青木は楽しいと感じなかった。
この日は、ホテルを出たところで、会場で気になっていたが話す機会のなかった女性に、青木は珍しく声をかけた。歩いているうちに駅に着き、帰る方向が一緒で、電車の中でも隣に立って話しかけた。男好きのする雰囲気の女性だった。南関東に住んでいて、愛想が良くて、女らしかった。その場の勢いで、お茶に誘ったが、柔らかく断られた。ふたりは、次のターミナル駅で別れた。
ひとりになってから、ふと寂しさを覚えた。
入会してから一年が経ち、これまでたくさんの魅力的な女性と出会った。その中の何人かとは、パーティーで再会することもあった。しかし、きょうのパーティーには、彼女らの顔はもうなかった。相手が見つかったのか、会をやめてしまったのか、消息は知れない。
その数日後、青木は都心で秋山と待ち合わせた。高層ビルの展望レストランで、夜景を見ながら夕食をとった。恋人ではなく、男友達と並んで食事をする自分の姿を情けないとは思わなかった。
「我々にとっては、こんなこと一生に何度もあることじゃないよ」
秋山のそんな意見に青木も同調し、2人で高級ホテルに泊まった。設備は立派で、サービスも行き届いていた。ところが翌日は、近くで安いラーメンを夕食に食べた。
ある劇場で秋山と一緒に歌劇「カルメン」を見た。その後、学生街のクラシックの名曲喫茶の店に入り、いつものように長話に入った。その店は、時代の潮流で店内でテレビゲームをする客も増え、近々閉店するという話だった。
久し振りに相談所の経歴書の紹介で、青木はデートに出かけた。
相手は26才で純子といい、背が低くて、有名デパートの関連会社に勤めていた。
「パーティーなんか出ますか?」
「容姿に自信がないから、パーティーには、あまり出ません」
父親は大学出で、自営で建築業を営んでいた。母親は、青木の母と同じく尋常高等小学校卒業で、兄は小学校の教員をしていた。青木は、純子嬢には興味は湧かず、すぐに断った。