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心の恋人 第9章 上司の縁談

 (前章第8章までのあらすじ)
信州で再会した野口は、佐藤が美智子の結婚の予定を話すと、酔って泣き出す。佐藤は貴美子の東京のかつての住所を訪ね、心にこみあげるものを感じ、無力感を覚える。

 収税課には、普段あまり笑わない、気骨のありそうな係長がいた。
 九月のある時、杉山や仲間たちの間で、仕事を振り返る話題が出た。税金集めは、人から憎まれて、無駄足になることも多くて大変だ、という意見が出た。
 その係長は杉山に向かって、毅然とした態度ではっきりと言った。若い職員の佐藤にも、目配せしたようだった。係長は眼光が鋭く、黒眼鏡をかけ、細面で、機敏な歩き方をする。
「昔は、先輩から、人の財布に手を突っ込んででも、金取ってこいって言われたもんだよ。これは、だましや、盗みじゃないからね。法律に基づく行為だから。大部分の人は、真面目に納めているんだから……」
 係長は、にやっと笑った。冷静で、竹を割ったような性格に見えた。
「ひと言で言えば、この職場は、三〇〇万取って係長、五〇〇万取って課長になれる。おれは、今までの人を見てきて、そう思ってるよ」
 佐藤は驚いて、顔を上げた。
「そんな見方があるんですか? 」
 係長は言い過ぎたと思ったか、照れ笑いのような表情を見せた。
「他の職場はともかく、税金の職場は、そういう暗黙のルールみたいのがあるのさ。要は、その人がどれだけの働きを見せたか、だよ」
 係長は佐藤より二〇歳も年上の世代だった。税務の経験が長いようだった。
 かつては、同じ役所の人間でも、税務の職場に配属されると、ずっとその仕事に従事されられる職員が多いようだった。

 ある日、菅原が交通事故にあった。朝の出勤時間に、事務所に一報が入ってきた。
 交差点で何と、救急車が向こうから、ぶつかってきたという。両方の車の前の部分が衝突した。菅原はカーステレオを聴いていて、サイレンの音に気がつかなかったという。救急車は、駅で倒れた老女を救助に向かっていた。
 菅原と救急隊員は、けがはなかった。すぐに車から降りて、その場で話しこんだ。駆けつけた警察の現場検証を受けた。
 一方、急きょ、もう一台の救急車に出動の命令が出た。老女を助けるため、駅に向かった。
 職場では、救急車と交通事故を起こすとは珍しい、という声が聞かれた。どうやら、佐藤が人から聞いたところでは、救急車は、赤信号でも交差点を前進できる。しかし、他の車や人に注意しながら徐行するのがルールらしい。一方、菅原は普段通り、青信号で交差点に入った。しかし、サイレンの音が聞こえなかったのは、ヘッドホンをかぶって音楽を聴いていたことも影響していたようだった。
 事務所に顔を見せた菅原は、気が動転しているようだった。
「どうも。ご迷惑をおかけします」
 会う人ごとに頭を下げて、あいさつしていた。
 菅原は、もともと人より気丈夫に見えた。ときに悲壮感を漂わせているところがあった。

 夏の行楽シーズンに、佐藤は山間部の別荘地で、職場の若者たちのテニスの合宿に参加した。
 若者たちがテニスウエア姿で、肌を露出して、コートを走り回った。
 佐藤は、先輩の太田と男性用の和室に布団を敷いて、横並びに寝そべった。
 二人で、天井を見つめた。テニスをしたあとで疲れていた。夕食には、まだ間があった。
 太田は、北陸で過ごした学生時代に、恋をしていたと打ち明けた。
「昔、彼女と一緒に、こんな風に天井を見上げていたんだよ。おれ、言ったんだ。ずっとこんな時間が続くといいなって……」
「ああ」
 佐藤は返事した。
「そしたら、彼女。そんなこと言わないで、って言ったんだよね」
「その彼女は、どうしたの?」
「終わったよ。別れた」
 履き捨ているように言った。
 佐藤はふと、大学の同級生の野口、美智子を思い出した。ここにも、似たような若者の恋があったのか。
 太田は、職場では佐藤より一年先輩だったが、年齢は同じだった。普段は活発で、行動的だった。由美子のような若いバイトによく声をかけ、誘いをかけていた。女遊びの好きな、隅に置けない奴かと、佐藤は先入観を持っていた。
 しかし実際には、恋をして、恋人とは性関係を持った。その恋人と辛い失恋の経験をした。真面目な、情熱的な青春を生きてきた好青年なのかもしれない、と思い直した。

 一〇月のある日、ある職員が言った。
「税務職員は、納税者をいじめているような気がしませんか? 良くないですよね? 公務員て比較的、事なかれ主義の人が多いでしょう。たいていの人は、仕事で他人をいじめることなど望んでないんですよ。でも、立場上、そうなってしまうこともあるんですね」
 別の職員が言った。
「いやあ、税金の仕事も、やってみると、苦労して大変だよ。一〇万の税金、五万の税金だって、かけて取るのって大変だよ。はい、分かりました、って言って納める人ばかりじゃないからね。怒り出す人、泣き出す人、ごねる人、うるさい人、怒鳴る人、馬鹿にする人、いろいろいるからね。どっちがいじめているんだか分からないよ」
 また、別の職員が言った。
「ときどき、何かの公共工事で、一億無駄になったなんて、本当だか嘘だか知らないけど、そんな話を聞くと、いやになりますね。税金を使う職員は、自分で、税金取ってきてもらいたいですよ。金を取るのも、取られるのも、生活も感情もある人間ですからね」
「収支で見れば、収入の部門と支出の部門の連携が出来てないんだよな。一〇〇万しか収入がないと分かっていたら、最初から一〇〇万しか支出しないような考え方が出来てないんだよな」
「一〇万課税したからって、一〇万収税出来るとは限らないしね」
「そうだ。でも、中には、五万なら取れるからと言って、遠慮して五万しか課税しないのはおかしい。一〇万課税すれば、六万でも七万でもとれるって言う人もいるんだ」
「九割以上の税金は、黙っていても入ってくるんだよ。ほとんどの人は、多少不満はあっても、決められた通りの税金を納める。なかなか納めない一割以下の人を相手にして、税務職員は苦労するわけだよ」
 佐藤は、また事務所を尋ねてきた納税者から、二,三〇分苦情を聞いた。こうしているうちに、自分の青春の日々が過ぎていく、とつくづく思った。一方では、二年以上続けた税務の仕事は、社会風俗の勉強には役立ったと感じた。

 佐藤は、ある女性の新規登録を受け付けた。
 スナックのママだった。目鼻立ちの整った美人で、佐藤と同じ年齢だった。ママの方は、佐藤が自分と同じ年齢だとは知らない。北海道から父親の転勤で、北関東にやってきた。結婚して一児をもうけた。しかし、離婚して母子家庭の生活をしている。子どもが小さいから働かなければならない。
 公的な仕事に携わっていると、立場上、他人の経歴をあれこれ知ることが出来る。もちろん個人情報を外に漏らせば、罰せられる。
 佐藤は、その女性と向かい合っていて、気分が良かった。容姿も優れているが、人柄も好感が持てた。水商売の人の中には、苦労知らずで育った人もいる。
 仕事だから、こんな魅力的な女性と向かい合って話すことが出来る。

 そんなところへ、遠藤と同じく留年していた男の同級生から、突然に電話が掛かってきた。
「あした、東北の実家に帰るから泊めてくれないか? 」
 佐藤は少し考えた。
「職場の旅行だからなあ」
 そう言って断った。
「冷たいなあ」
 同級生は、ひと言言う。
「急に言われてもなあ」
 佐藤は、クラスが別で親しい付き合いもなかったのに、ずうずうしいなあと感じた。
この間まで、他の同級生のところで世話になっていたらしかった。
 かつて、その同級生は繁華街のレストランで、佐藤に言った。佐藤はそのとき、珍しいことを言う若者だ、と思って冷静な目を向けた。
「佐藤は、女に愛されている自信があるか? おれはあるよ」
 佐藤は、それを思い出して聞いてみた。
「前に、付きあっている女がいるって言っていたよね。その女とはどうしたの? 」
「ああ、あれとは別れたよ」
 佐藤は話題を変えた。
「今はどうしているの? 」
「定職には就かないで、アルバイトをしているよ。佐藤は? 」
「公務員だよ」
「公務員かあ。つまらなくないか? 一生公務員をやるのか? 」
 何を思うのか、同級生は聞く。
「おれは、平凡なサラリーマンになるのはいやだよ」
 佐藤は、同級生のそんなわがままで、ずうずうしいところが、以前から好きになれなかった。どこか自分自身の一面を見るような気恥ずかしさを感じていたのかもしれない。文学部の学生の気分を、まだ引きずっているらしかった。金銭の節約のためなのか、友人の家を泊まり歩いて、遠くの実家に帰ろうとしている。それが羨ましくもあり、子どもっぽくも見えた。
 それでも、東北訛は学生時代に比べるとだいぶ取れていた。東京時代には、佐藤も北関東の訛りがあったが、同級生の方が訛りの程度は強かった。

 一一月になり、佐藤は同期の中山と、税金集めの仕事に出た。
 課税担当の職員は、ときどき収税担当の仕事を手伝う。中山は、最初は収税に配属された。それが、今年から佐藤の課税の係に移ってきた。収税の仕事では、佐藤より先輩になる。
 滞納者の家の前に車で乗りつけた。
「ごめんください」
 玄関に二度三度、声をかけた。
 引き戸の取っ手に手をかけたが、開かなかった。縁側の窓も閉まっている。カーテンが引かれていて、覗いても中は見えない。
 そこに、隣の家から、中年の小太りの女性が走り寄ってきた。
「何ですか? いませんよ」
 大きな声で言った。二人を睨みつけた。
「どちら様ですか? 近所の人ですか? 」
 中山が聞いた。
「私は隣に住んでいます。こちらは二,三日、戻ってきませんよ」
「あのう、市の税務課の者なんですけど……」
「えっ、税務課? サラ金の人じゃないの? 」
「サラ金って、何ですか? 」
 中山は苦笑いした。女性の顔つきから緊張感が取れたようだった。
「もう、取り立てが厳しくて大変なんですよ。お隣さん、かわいそうで……。男の人二人で、スーツ着て、来るんですよ。私、てっきり、取り立ての人じゃないかと思って……」
 佐藤は納得した。なるほど自分たちは、スーツを着て、両方とも体格はいい。見方によっては、硬い表情にも堅苦しそうな姿にも見えるかもしれない。
「いやあ、取り立てというか。そんな厳しいことはしませんが……。ちょっと、税金のことでお話しようと思って……」
 中山が弁解するように言った。人から金を取るという点では、自分たちもサラ金と変わらない。
「サラ金の人は、大声で、借りた金を返すのは当たり前だ、なんて玄関口で、近所に聞こえるように言うでしょ。電話は、かかってくるわ、何回も来るわで……。この間なんて、庭先にビラ、まくんですよ。いっぱい、まくんです。歩けなくなるくらい。いやがらせっていうか? この人は、借金を返してくれません、なんて落書きしていくんですから……」
 二人は、唖然として話を聴いていた。
「いやになって逃げちゃったんでしょう。どこに行ったんだか。しばらく帰ってないみたいですよ」
「そうですか。じゃあ、あっちこっち大変なんですね」
 車に乗った二人は、一緒に笑った。自分たちはサラ金と似たようなものだ。
「借金取りと、そこから逃げる人か。世の中、大変だな」
 佐藤はそう言いながら、思った。税金を滞納している人は、電気代、ガス代なども支払っていない人が多い。要するに、金がなくなって、あちこち支払いが滞っている。そのうえ、利子の高い借金を、人から借りて返すとなれば、首も回らなくなるだろう。これからどうしていくのか。
 中山は一息ついて言った。
「税金を納めない人には、二種類あるんだよね。ひとつは、お金がなくて納められない人。これは同情の余地があるけど。もうひとつは、お金はあるけど、もったいないから納めない人だね。こっちは納めてもらいたいよね」

 一二月になって、職場の面々は年末の旅行に出かけた。都内のバスツアーを利用した。中華料理店、ミュージックホール、キャバレーと回った。佐藤は、若い仲間と歓楽街のディスコで、深夜三時まで踊った。
 大型の遊戯施設の中を、仲間たちは三々五々に別れて歩いた。
 佐藤が誘うと、悦子は同じ遊具に乗ることを承知した。佐藤が悦子の体を、後ろから抱きかかえる形になった。遊具は、回転を速めながら、高度を上げた。佐藤は、悦子をしっかりと抱いた。恋人を温かく抱きしめているような心地よさを感じた。
 他の仲間は、そんなことには気づいていないようだった。遊具から降りると、悦子はにこにこと笑っていた。
 御用納めの日、佐藤は職場で仕事を終え、囲碁を終えた。海外で年越しする人々のラッシュを、テレビで眺めた。
 自分は毎日、市役所という職場に通うだけだ。近所付き合いも親戚付き合いもない。地域社会に参加していない気がする。そして、一年が過ぎている。
 遠藤から電話があった。中部地方に帰って新聞記者になった野口の情報だった。地元のミス何とかと交際し、結婚を真剣に考えているらしい。

 ある日、寒さで空気が引き締まってきたかと思うと、雪が降ってきて、佐藤は灰色の空を見上げた。た。寒くて、暗くて、寂しかった。貴美子と過ごした都会に比べたら、ここは人気のない、明かりの少ない、物寂しい地方の町だ。
 かつて、おれは予期していたのかもしれない。自分は、貴美子とはもう会えない日々の中に入っていく。こんな孤独な夜が、目の前に展開する。それが分かっていたから、貴美子との別れに、あんなに涙を流したのかも知れない。
 貴美子を、この腕に抱かないで終わる人生は寂しい。
 貴美子と出会い、別れた青春は、波瀾万丈に見えた。一方で、人に話せば、どこにでもある失恋話になってしまう。

 年が明けて、大学の恩師から年賀状が届いた。時節の変わり目に、佐藤は卒業祝賀会の時のことを、つらい気持ちで思い出した。
 佐藤が人から頼まれて、その教員の退官の祝辞を述べた。孫と祖父のような関係だと言うと、一座の笑いを買った。教員は答辞で、こんな大きな孫はいないというと、また笑いを買った。
 その祝賀会の場で、貴美子は、それまで滅多になかったことだが、佐藤に自分から話しかけ、記念写真に入るように手招きした。あのとき、貴美子と佐藤は近しい関係に確かにあった。
 目の前の日常生活に戻れば、現在の時間は、貴美子と無関係に流れ続ける。そんな時間の中で生きている自分を、改めて見直す。貴美子と結婚することはない。それどころか、一生会うことさえないだろうと、自分に言い聞かせる。
 ある夜、また貴美子の夢を見た。貴美子が結婚したと知る前に、他に愛せる相手を見つけておかないと、つらくて耐えられないと思った。

 正月気分を味わっていると、また関東に大雪が降った。
 本庁で行われた研修で、佐藤は美人職員に会った。楽天家で、外向的で、第一子の誕生を待っていた。
 佐藤は過ぎ去った年月を思った。
 今まで学生時代に、同年代の美人に声をかけてきて、残念ながら交際には至らなかった。 社会人になって、改めて何人もの美人に出会った。しかし、自分が年を取ったくらいで、美人たちは、すでに結婚してしまっていた。
 美人たちは落ち着きがあり、色気があった。職場で出会った悦子も、その中のひとりだった。悦子は悲観的で、内向的で、第二子の誕生を待っていた。
 佐藤の心の中で、美人への意識が少し変わった。
 以前の憧れの美人は、手の届かない高嶺の花で、偶像崇拝する人形で、非日常的な存在だった。今、目の前にいる美人は、平凡な生活を送る平凡な女性たちに見えた。

 不幸は不意に襲ってくる。職場の菅原は、また事故を起こした。今度の相手はダンプだった。
 ダンプの運転手の妻は、何と職場の中にいた。中年の女性職員だった。田舎町の世間の狭さか、不思議な因縁か。
 菅原の言い分では、自分は大通りを走っていて優先権があった。そこに、脇道からダンプがぶつかってきた。菅原の小型乗用車は、前部が大きく壊れた。幸い、双方に怪我はなかった。
 示談が進むと、菅原は、自分の車を修理してもらうのではなく、新車に買い換えてもらうことを要求した。菅原は、相手に対して強く出るところがある。菅原の車は、買ったばかりのところを一度事故に遭って、修理している。そこに、また事故で衝突して、大きく傷んでいる。元の通りの新しい車が欲しいと望んだようだった。
 過失割合はどれくらいなのか。周囲には、詳細は分からなかった。
 女性職員と菅原は、同じ事務所の中で席は離れていたが、互いに気まずい気持ちで顔を合わせているようだった。

 一方、先輩の阿部の噂が届いた。
 阿部の以前の恋人が結婚するらしかった。相手は、労働組合の事務局の同じ職場の男で、阿部とは高校の同級生の間柄らしかった。阿部はかつて、公務員だからという理由で結婚を断られた。佐藤は、今はもう、阿部と顔を合わせることはない。詳しくは分からないが、阿部は過酷な運命に見舞われたと思った。

 係長の杉山が、珍しく佐藤の隣の空席まで歩いてきた。
「佐藤さんはどうなの? そろそろ身を固める気はないの? 相手はいるの、いないの?」
「はあ。いるような、いないような……」
 杉山は急に、小声になった。
「実は、ちょっと相談があってね。昼休み、一緒に食事でも、どうお? 」
「そうですか? 何か? 」
「うん。ちょっとね。その方面の話なんだけど……」
 正午になり、佐藤と杉山は表に出た。
「あそこでいいね」
 杉山は、近くの和風食堂を指さした。二人は中に入ると、靴を脱いで座敷に上がった。事務所の職員が数人いた。それを避けるように、杉山は隅の席で、座布団にすわった。
「実はね、うちの娘、佐藤さんにもらって欲しいと思ってさ」
「はっ? 」
 佐藤は目を丸くして、驚いた。
「是非、もらってもらいたいんだ。私も、佐藤さんの性格や優秀な能力も知っているし、まあ、惚れ込んでいるって言うか、気に入ってるわけだよ」
 佐藤は面くらい、杉山を見つめて薄ら笑いを浮かべた。
「そういうお話ですか、しかし……」
「もちろん、今すぐにどうの、ってことじゃないんだけどね。前にも話したと思うんだけど、音大、出ててね、今、中学校の音楽科の教員やってるんだ」
「ええ。長女の方ですよね? 」
「うん。下の方は、まだ高校終わってないから。その上の方が、今年は二四になるからね。娘だと、いろいろ心配でね。つまんない男に引っかかるよりは、私の見込んだとこで、佐藤さんみたいな好青年にやっちゃおうかな、と思ってね」
「はあ……」
 佐藤は下を向いて、考え込んだ。注文した料理を女性従業員が運んできた。
 二人は話を中断して、箸を手に取った。
「小さい頃から、ピアノ習わせててね。有名な先生について大変だったんだよね。手塩にかけた娘だからさ。コンクールでも、一回優勝したの。それでも、上には上がいてね。やっぱり、本格的な芸術家になるには、何と言っても金が掛かるんだよ。いい先生ほど授業料は高いし、楽器だって安いの買えないでしょう。私なんか、結局、安月給の市役所勤めでしょ。だから、中学校の先生になってね」
「はあ、やっぱり金の世界ですか? 」
「そうですよ。芸術なんてのは、初めから経済的に余裕のある人じゃなくちゃ、始められないでしょ? 」
「そうかもしれませんね」
「わたしも、ほらっ、女房は学校の先生やってるんだけど、公務員なんて、先生あたりをもらうのが一番いいんだよ。共稼ぎでね。うちの娘、今度、写真持ってくるけど、ちょっとわがままなところ、あるかもしれないけど、いい子だと思うよ。親が言うのも何だけど……」
「ええ、有り難いお話ですが……」
「今度、うちへ遊びに来てよ、会わせるから。自然な感じでいいんだから。そうやって徐々にさ、知り合ってもらって……」
「いや、でも、僕はまだ、そういう気持ちになってないんで……」
「気乗りがしないわけ? 」
「気乗りがしないって言いますか、今、いろいろと忙しいもんですから……」
「だって、もう、もたもたしてると三〇になっちゃうんじゃないの? 何だか独身時代を楽しんでいるみたいだけど、男も三〇にもなると、見合いの話だって来なくなるし、なかなか難しくなるよ」
「はあ、まあ、考えてはいるんですが……」
「誰か心に決めた人でもいるの? 」
「まだ、はっきりしたわけじゃないんですが……」
「ふうん。うちの娘も、まだお嫁に行きたくない、なんて言ってるんだけど……」
「そうなんですか? それじゃあ」
 佐藤は、あきれかえって笑った。
「いや、佐藤さんに会わせれば、きっと気に入るよ」
「それはないでしょう」
 佐藤は苦笑いした。杉山の顔は真剣だった。
「いやあ、佐藤さんのこと気に入ったから、もっとお近づきになりたいと思ってさ。お父さんにも会ってみたいもんだね」
 佐藤は内心で、この話は受けられないと思った。
「本当にもったいない話なんですけど……」
「とりあえず写真持ってくるから、ねっ」
 降って湧いたような話だった。
 仕事上の上司から持ちかけられた話で、無下には断れない気がした。
 どうも、話の全体が、杉山の独りよがりな印象を受けた。自分の思い通りにしようとしても、佐藤も娘も、違うことを考えているような気がした。杉山には好感は持っていた。しかし、ときどき職場で猥談をするなどして、破廉恥なところがあって苦手だった。
 一方で、見込みのない恋を追いかけるより、近場で、無理のない条件で、手っ取り早く相手を決めた方が、苦労は少ない気がした。その方が、平凡につつがなく暮らして行けそうな気がした。自分は結婚の適齢期の最終段階にいるのかもしれないと感じた。

 杉山は、せっかちな性格のようだった。
 娘の縁談を持ちかけた日の翌日、早速、職場に娘の写真を持ってきて佐藤に見せた。成人式に撮ったという和服姿の写真だった。器量が良くないわけではなかった。しかし、特に惹かれるものはなかった。と言うより、最初から佐藤の腹は決まっていた。
「どう? 悪くないでしょ? 」
「はあ。しかし、折角なんですが、まだ今は、そういう気持ちになれなくて……」
「そうかい? やっぱり誰かいるの? 」
「ええ」
「じゃあ、うまく行きそうなの? 」
「それは、先のことは分からないです。昔の好きだった人のことが、まだ忘れられないものですから」
「本人同士は、大丈夫なんでしょ? 」
「ええ、まあ」
「周囲が反対してんの? 」
「何と言いますか、あんまり話したくないんですけど……」
 杉山は、宙を見て、ひと息ついた。
「これは、と思って相談したわけなんだけどね。私は、昔から土地の売買やっていてね。もう新しい家も建ててあるの。そこに住んでもらおうかと思ってね」
 杉山は、残念そうにアルバムを閉じた。
「あとどれくらいで、そっちの方は結論が出るの? 」
「はっきり言えません」
 杉山は、あざけるような表情を見せた。
「佐藤さんは、ロマンチストなんだね? 」
「恥ずかしながら、まだ今は夢を追っていたいんです。現実を知らないって言われるかもしれませんけど……」
「だけど、誰だって、しっかりと身を固めていかないと、いつまでも若くないし、親も年を取るし……。ちょうど人事異動の時期が近づいていて、会えなくなることもあるからねえ、こんな話を切り出したんだけど……」
「どうも、わざわざ考えていただきまして」
「私だって、他にいい口があれば、娘やっちゃうよ」
 脅迫するような口調だったが、佐藤の心には響かなかった。この人はやはり、他人の気持ちが良く分かっていないと感じた。
「それは、私がどうのこうの言う問題じゃないですから」
「うーん。なかなか世の中、うまく行かないもんだね」
 杉山は溜息をついた。佐藤も、同感するように頷いて、微かに笑った。
「誠に有り難い話を申し訳ありません」
「しようがないね」
 佐藤は苦い思いを味わって、頭を下げた。
 それからしばらく佐藤は、職場で杉山と一緒にいながら、気まずい気分を味わい続けた。
 そのあと何と、加藤が、国立大を出た小学校教員を見合いに世話したい、と言ってきた。同じような理由で、佐藤は、その気のないことを伝えた。
 驚いたことに、加藤に続いて、先に結婚した同期の中村も、気を利かせた。佐藤のために名門私立大学の英文科を卒業した高校教員を、見合い話に持ってきた。
 佐藤は、口実を設けて、その話も見送った。
 この四月から、佐藤の市税事務所の勤めも、四年目になる。


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