ツバメの来る日 第1章 度重なるデート
(第1章のあらすじ ~ 市役所職員の青木は福祉課に転入する。出身大学の会合でかつて袖にした敬子と再会して気まずい思いをする。心中では大学卒業とともに別れた意中の女性万里と一生会えないことを想像して悲しくなる。失恋などを友人秋山と語り合う。職場では美人の由美に気持ちが傾倒する。実家の縁談で容姿の整った英子と会い、デートを重ねる。過去の恋愛の対象の女性たちを回想し、恋仲になれなかったことを残念に思う。母や仲介者の反応を見ながら、結局英子の件は断る。職場では、青木の本心も知らず周囲が次から次へと見合い相手を紹介する。結婚相談所の紹介である女性とデートする。見合いで酒を飲むなんて言う相手はやめてしまいなさいと親に言われた女性はすぐに帰ってしまう。)
元号が平成に変わる1年前のことだった。
4月には世の中の企業の多くがその年の活動を開始する。青木も勤め先のA市役所から辞令が出て、本庁の福祉課に配属された。転勤によって職場と同時に仕事仲間も変わり、若くて器量の良いアルバイトの女性たちが、独身の青木の生活の中に登場してきた。
以前の職場でも新しい職場でも、数日を挟んでそれぞれに職員の歓送迎会が開かれた。青木は夕方になると、そそくさと出かけていって出席した。これまでの職場仲間に別れを告げ、新しい仲間とあいさつを交わした。毎年恒例の行事だった。
新しい勤務先は、これまでとは別の町にあった。交通手段も、今までの自家用車から電車に変わった。職場だけでなく住居も、青木は実家からアパートに変えた。
生活環境が変わり、めまぐるしい日々が続いた。時の流れの速さについて行けない感があった。
それでも新居のアパートに友人の秋山を呼んで、よくあることだったが、夜中の12時頃まであれこれと、目下の共通の話題を話し込んだ。秋山はB市役所の職員で、青木から見れば、いわば公務員の同業者だった。
そんな多忙な日々の中、職場で廊下の向こうからひとりの女性がまっすぐに歩いてくる姿に、一瞬青木の視線は釘付けになった。彼女の姿は輝きを放って、背景が後退するような錯覚を覚えた。
体の輪郭には無駄な線がなくて、女性独特の起伏がはっきりと見て取れた。後ろ姿は背筋がまっすぐに伸びて、両脚を交差するように歩き、長くてまっすぐな髪は背中まで垂れていた。服装はどこかのパーティーのコンパニオンのような、白いブラウスに黒くて短いスカートだった。
年度初めには、いくつかの集まりがあった。その一つが、市役所の同じ大学の出身者の懇親会だった。そこには、青木と同期で入庁した敬子がいた。
座敷でそれぞれの自己紹介が行われた。敬子は、その場の自己紹介の言葉で市職員と結婚していることが分かった。敬子の顔を見ながら青木は複雑な面持ちだった。
実は、青木はかつて敬子を袖にしていた。自分を慕ってくれていた敬子を断ってすまないと感じていた。それでも表面は平静を装い、自然に振る舞った。
ひとりの市会議員が同窓の縁で招かれ、会合に出席していた。その場には、未婚者は少なく、青木が独身であることが話題になった。
「もういい年なんですけど、ひとりでいるのが好きなのか、なかなか決まらないようで……」
先輩の職員が、青木に目配りしながら言葉を挟んだ。それを受けて市会議員が助言した。
「そりゃあ、気をつけないといかん、あっという間に年をとるからね」
青木は苦笑いしながら、敬子の視線も気にしていた。
青木はある日、急にひとりでいることの寂しさを感じた。
夕方、親友の秋山を呼び出した。喫茶店で夜中の12時まで、互いの昔の恋の話をした。店を出ても更に、駐車場の車の中で女性たちのことを語り合った。気がつくと、時計の針は2時を回っていた。
秋山と別れた後、ベッドに横になった。闇の中で久しぶりに万里と一生会えないことを考えた。ひどく悲しくなった。
万里とは学友という程度で、男女の交際には至らなかった。しかし、本気で愛して、失恋した後は深い悲しみを経験した。
この数年は、相応に魅力的な若い女性と出会って知り合っていた。小さな恋心と言えるものもあったような気がする。しかし、時期が来て彼女たちと別れて、ある程度の時間が経つと、ことさら深い印象は残っていなかった。小さな恋は不調に終わっても、受ける傷は浅いように思えた。
万里の残した傷は、それらを超える大きさで、いつまでも心に残った。
しかし一方で、数日経ってから、青木は職場で見かけた女性のことを思い出した。
あの時のときめきは、いわゆる一目惚れというものだったのかも知れないと思い当たった。その印象的な姿は、彼女にまつわる一連の出来事から数年が経っても、脳裏に何度も何度も去来した。
由美というその女性は、青木の勤務する福祉課の隣の総務課に所属していた。
職場では、コピー機を総務課と福祉課が共用していた。アルバイトの由美は、コピーをとる用事を職員から頼まれることが多かった。青木はコピーを取りに行くたびに由美の姿を見て、すれ違うときなどに近くに気配を感じると気持ちが動揺した。
月日が経つにつれて、由美には怪しいほどの美しさ、冷たいほどの美貌があると、青木は思い始めた。可愛らしいと言うより美しいといった方が適当な、一種危険な魅力だった。由美に出会い、その魅力に触れたせいで、由美への恋がうまく成就すれば問題はないが、失敗に終わったときは失望感が強くて、他の女性に目を向ける気持ちが容易には起こってこないのではないかと、本気で思った。
由美には、これまで青木が心を傾け関わり合ってきた女性たちを忘れさせるだけの力があった。
このところ、青木は東京の女性を相手にして心を悩ませてきたが、都会から離れた関東の外れの土地で、自分の住んでいるすぐ近くに、あんなに魅力的な女性がいたのかと驚いた。
青木は時々東京に出かけると、帰りに下町の有名な界隈をよく歩いた。観光客でごった返す出店の通りの先に寺があり、そこで恋愛問題で願を掛けることがよくあった。願掛けをするのは、熱心に神仏を信じているせいではなかった。前途が見えないと時の気休めだった。その祈願する相手は、そのうちに今までの女性から由美に変わっていった。
手を合わせながら、頭の片隅でふと思った。生活の中で目配せしても、才色兼備の女性は、なかなか見つからない。高望みして内面も外面も優れた女性を探しても、うまく行かない。しかし、内面の美しさと違って、外面の美しさは、目で見ればすぐにそれとわかる。由美は容色は優れているが、果たして性格も優れているだろうか。自分は由美の容色に惹かれて夢中になり、気心はつかめずに苦労することになるかもしれない。
青木は、由美と同じ総務課で働く、同期で入庁した村山とあいさつし合った。新人の研修以来、久しぶりの再会だった。村山のすぐそばに由美はアルバイトとして座っていた。青木は村山と世間話は色々したが、由美に密かに思い入れている気持ちは、恥ずかしくて話せなかった。
職場の中で、容姿が端麗で、装いの派手な由美は、周囲から注目を浴びていた。青木は、自分から意識して由美に視線を向けるときには、それを他人に気付かれないように注意を払った。反対に、職場の女性と立ち話などをしていて、それを通りかかった由美に見られたときには、ばつの悪い思いを味わった。
青木は、由美のおしゃれを真似ているつもりで、時々ピンクのシャツを着て、ブルーのネクタイを身につけて職場に向かった。その日は廊下で、派手な服装の由美が、腰を左右に振って歩いていく後ろ姿に出くわし、気づかれないようにじっと見つめた。由美は何を思ったか急に振り向き、青木は視線が合って面食らった。
毎日顔を合わせるのが、刺激的で楽しみだった。表面には出さなかったが、強く意識して、完全に夢中になっていた。
由美は軽自動車で通勤しているらしく、駐車場で友だちと黄色い声をあげて騒いでいるのを見たことがあった。そんなときの由美は少し軽薄そうで子どもっぽく見えて、その美貌と不釣り合いだった。
青木は母親から見合いの話が来たと言われたが、由美のことが頭にあって、その気になれなかった。職場では、機会があれば由美の姿に視線を投げて、家に帰ればその面影を心の中で見つめた。
そのうち、母親は一度口にした見合いの話を改めて持ってきた。母親が言うには、中に立っているのは母のところによく顔を出している、なじみの銀行員らしかった。
日曜日に、青木は町中のレストランで、その見合い相手とデートした。
相手の英子は、容姿が平均的な女性より整っているように見えた。29才で、学歴は大卒の青木と違い高卒だった。青木は尋ねた。
「東京の方は、出かけますか?」
青木は東京の大学を出ていた。
「東京は、よく知りません」
「海外旅行は行きましたか?」
「フィリピンには旅行しました」
青木はヨーロッパに1か月近い旅行をしたことがあった。
自分とは色んな点で合わないかも知れないと感じた。かと言って、相手を見下した訳ではなかった。この程度は大きな問題ではないと感じた。
青木は笑いながら言った。
「村の人と会うのは初めてです」
英子は青木と違って、市や町になる前の、まだ村と呼ばれる地域に住んでいた。英子は苦笑いした。青木は自分の冗談に反発しない人だと感じた。その点では好感が持てた。しかし、このまま母に促されるままに付き合ってしまってよいものか迷った。
自分の車に英子を乗せて、市内の運動公園と隣町のレストランに行った。英子は改めて言った。
「お見合いは、これまで断り続けてきたんです」
青木は、この人は自分のことを受け入れる気持ちがあるのかもしれないと思った。年齢を考えると、結婚を急いでいる可能性もある。
見合いが終わると、母親は早速、青木に連絡してきた。銀行員が様子を聞きに来たという。
「いい人だったから付き合ってもいいけど、話を大げさにしてもらっては困るなあ。先のことは分からないから……」
「いい人だったら、住んでいるところも近いし、いつまでも今のままでいるわけにも行かないのだから、付き合って早く決めてしまったほうがいいよ」
青木は思った。このままでは、揺れ動く気持ちのまま、英子との付き合うことに決めてしまいそうだ。
歯車は回り出した。自分の決心はついていないのに、周囲が強引に話を進め、結婚話に進展するようなことになっては困る。周囲がその気になったところで、自分が、この話はやめると言い出したら、いったいどうなってしまうのか。周囲に迷惑を掛けることになるか。しかし、親の白髪も増え、息子の心配をしている。できれば、その願いにいい返事で応えたい。
数日して、母親は次のデートの場所と日時を決めて、青木に電話してきた。
英子はこれまで随分と見合いの相手を断ってきたが、青木のことは気に入っているらしいという話だった。
次の日曜日、英子は約束のレストランに、約束の時間にやってきた。3時という中途半端に思える時刻は2人の都合ではなく、母と銀行員で決められたものだった。不甲斐ないと言う見方もあるが、本人の青木が元々見合いに乗り気でないのだから、こうしたいきさつは仕方ない。
ふたりはイベントの行われている近くの運動公園に出かけた。途中から雨になったが、青木にとっては、久しぶりに仕事のことを忘れて、のんびりできた日曜日だった。
英子はやはり並以上の器量で、おとなしい様子だった。青木は思った。自分が気に入っているんなら、結婚のことや互いの好みなど、将来に向けた話題を話し合ってもいいかもしれない。しかし、他の女性との将来も目の前にちらついて、核心の話を避けた。
「今度会う日は、どうしますか?」
青木が問うと、英子は、いつでも会えるような気配を見せた。
「私は暇ですから……」
これまで関わってきた女性たちとは、遠くて会えないことが多くて、ずっと苦労してきた。しかし、英子は近くで、待つことなく会える女性のように見えた。
英子と一緒に時間を過ごしていると、青木は手持ちぶさたになった。意図して男が女を求める行動に出れば、関係は深まっていくような予感がした。しかし、今すぐに結婚がどうのとか決められない気持ちは、英子も同じらしかった。
次のデートの日曜日、青木が実家に行くと、英子との交際のことを母に聞かれた。
取りあえず付き合うが、すぐには結論は出せないという話に落ち着いた。その後ゴルフの練習に出かけ、自分の煮え切らない胸中を吹き払うようにクラブを振った。
デートの場所に着いたときは30分近く遅れていた。
雨が降っていたが、隣町にドライブした。通りや店の中で見る他のカップルの女性たちに比べると、英子は色白で、目が大きく二重で、スタイルもよく見えた。相変わらず器量が良かった。顔立ちには目を見張るものがあり、無視することはできなかった。
機会を見つけて、青木は冗談半分に英子の手を2,3回触った。これ以上、関係を深めると、覚悟が必要になると思った。英子は、あからさまな抵抗は見せなかった。しかし、責任ある言葉を聞いてからでなければ、自分を許さないつもりでいるらしかった。
青木は、英子は自分の選ぶべき女性の一人として十分かもしれないと感じた。そして、こんな女性を見送るとしたら、自分は愚かかも知れないと思った。
ふたりの今後という重要な話題には触れなかった。というより、先導する役目は自分にまかされているような気がして、意識的にそのような言葉を避けていた。
「次の待ち合わせはいつにしますか?」
青木が話しかけたが、互いの都合ですぐに決まらず、後で電話で相談することになった。
青木は、このところ立て続けに3週、日曜日毎に英子に会っていた。この辺で冷却期間をおくのも、互いのためにいいかもしれないと思った。あるいは彼女の方から、こちらの本心に気づいて、断ってくるかも知れない。
英子に取り立てて気に入らないところはなかった。器量も良いし、性格も穏やかに見えた。見合いでは、これほどの魅力のある女性には滅多に会えないと思った。断るとすれば、その理由は、どうしても気になる女性が他にいる、それは万里にしろ由美にしろ他にいるということになる。
青木は今、自分は女性に恵まれていると感じた。職場のバイト嬢、女子職員、ときどき会う見合いの相手。しかし、誰も本気で好きになれず、誰からも本気で好きになってもらえない気がする。自分はほどほどに女性に好かれているようだが、美人に振られて、不美人を振ってきたような気がする。人生と同じように、恋愛はうまく行かない。しかし、もうすぐ31才になる。
本当は、嫁探しは一時休戦して、どこかでひとりになって、じっくりと夢見心地に浸りたい。どこかの観光地、例えば、あの信州の高原の別荘地のような場所が良い。
あの場所に、自分にはすばらしい思い出の日々があったことに気づく。若い娘たちが、夏の休暇に、テニスやサイクリングに興じていた。あの魅力的な肢体の娘たちは、いったいどこに行ってしまったのだろう。
なぜ、自分はあの青春時代に、美しい娘と恋に落ちることができなかったのか。
自分は、いまだに好きな女性とデートを重ねたことがない。本当の恋をしたことがない。相手だけが感じる恋か、自分だけが感じる恋しか経験していない。
母親は英子に連絡するように言ったが、青木にはそれができなかった。青木は母親に改めて真意を聞かれて、色よい返事ができず、口論になった。よくあることだった。両親の白髪も増えたことが、青木は気になった。
青木はやがて、英子に断りの意思を伝えてくれるように母に頼んだ。悪い人ではないが、結婚を決める気にはなれない。
あの万里に心を奪われてしまって、それ以来長い間、心の修復ができていない。近頃は、由美のことが気になる。
仲介人の銀行員は、青木の意向を伝えられた英子はがっかりして、私のような者ではだめなのだろう、と言っていたらしい。英子と同じくがっかりする母に対して、見合いなんて1,000回やって1回まとまれば、それでいいんですから、と銀行員は励ましたという。
6月のある日、市役所のOBの女性が、見合い話を持って青木のところに訪ねてきた。青木の上司で女性係長の小泉が、OBの女性に結婚適齢期の男性として青木を紹介したらしい。小泉は相手の女性の写真を青木に見せて、何を思うのか、ほめた。
「可愛いでしょう?」
青木は照れ笑いを、とりあえずして見せた。しかし、写真の小太りの女性に興味は湧かなかった。頼みもしないのに、この人は、と内心で思った。
日々の生活の中で、似たような出来事は続けて起こるものらしい。そのうち、もうひとつの見合いの話が、電話を通して青木の耳に入ってきた。
青木とは別の職場に勤める年配の男だった。
「結婚する気はあるのか? あるんだったら、縁談を頼まれている娘がひとりいるが、会ってみないか?」
ぶっきらぼうな物言いで、元々鼻息の荒い気性の人だった。以前にその息子の家庭教師を青木が頼まれてやったことがあり、息子は運良く志望校に入学できた。その恩返しのつもりなのか、一肌脱ごうという考えらしかった。
青木はこれまで、自分の縁談のことなど、職場関係の人には誰にも、一言も頼んだことはない。それなのに、世間の人たちは、独身の男女を見つけると、縁結びのため躍起になっているように見える。本人に相談なく、あれこれと画策するものらしい。
同じ頃、青木は都心の繁華街に出かけた。青木は以前から結婚相談所に入会していた。その日は、経歴書の紹介で仲人なしで見合いすることになっていた。、
相手の直子は26才で、私立高校の教員だった。姉と同じ有名な女子大を出ていた。
夜8時頃、約束の喫茶店に入った。昼間は2人とも仕事で忙しく、夜会うことになっていた。直子は小太りで、胴体も脚も太かった。
青木は、見合いのデートには珍しいことだったが、その夜は一緒に酒でも飲もうと考えていた。
「良かったら、お酒でも飲みますか?」
直子も事前の電話で、その思いつきを否定しなかった。
しかし、会って話を聞いてみると、意外な反応が返ってきた。直子はそのことを母親に話した。すると、
「そんな、お見合いで初対面なのに、夜に酒を飲むなんて、そんな人はやめてしまいなさい。9時にはタクシーに乗って帰ってきなさいって、言われたんですよ」
青木は、驚いた。
「初めて会った私に対して、そういう言い方は非常識じゃないですか? それじゃあ、まるで、私が悪者の扱いを受けているようじゃないですか? あなたがそれでいいって言ったんですよね?」
青木は怒りと、あきれかえった思いに捕らわれた。
「教職に就いている割には、大人げのない態度だと思いませんか? 失礼ですけど、過保護で育ててもらったんですか?」
青木は苦笑しながら、直子の対応を責め立てた。
直子は、はっきりと謝ることもなく、9時になると席を立った。
青木は、あえて引き留める言葉はかけなかった。直子は会ったばかりの女性で、容姿も良くなく、好きなタイプでもなく、青木の側に執着はなかった。後味の悪さだけが残った。
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