『いつだってふらふら揺れてなきゃ。主観、客観、主観、客観ってね。順応、抵抗。ついたり、消えたり。自由な人間は、壊れたランプと同じだよ。』
舗装された道を歩く時、縁石の上を歩いてしまう。
いつだってふらふら揺れてなきゃ。
なんでそんなところ歩いてるの。危ないからやめなさい。
と子供頃から散々言われてきた。
縁石の上を歩くことに、理由が必要だなんて思っていないし、
そもそも危ないとも思っていない。
親になって、
子供の前では、縁石の上を歩かないようになった。
いや、揺れてます。
どうやら、歩道の方が、ふらふら揺れるようです。
ランプにとって、灯すことと消えること、
どちらも本質なのだから、
ふらふら揺れてなんかいないよね。
余計なお世話だよね。
壊れて、ねぇし。
本質を行き来するランプが、
自由な人間であるならば、
それは、多分、自由ではない。
相対的に物事を捉えているだけだと思う。
縁石の上は、歩く場所ではないと、
だから、歩いているならば、
それも相対的なもので、自由じゃない。
子供の頃の僕にとって、縁石はアンパンマンみたいなもんだった。
本家は善と悪を分断するが、
エンセキマンは、歩道と車道を分断する。
ありがとう、エンセキマン。
泣かないで、エンセキマン。
これは僕の自由のため。
Fujirockでtoeの演奏を聴きながら、そんなことを考えた。
YIN YINもたまらんかった。