落合博満と流れ
落合博満は選手として監督として素晴らしい結果を残してきた。
僕にとって落合博満は、ただの野球選手ではなく、野球職人だと思っている。
自分の感性を研ぎ澄ませ、様々な状況に対応していく。
落合博満のYouTubeの中で、彼の打撃フォームの名称が『神主打法』と呼ばれていたが、どう思うかと聞かれていた。
落合博満は、打撃フォームに名前なんてつけられないと言っていた。
打撃フォームは、相手ピッチャーや自分の状態、自分の年齢など、様々なことを考慮して毎回変えているそうだ。
一度たりとも同じフォームでないのに、名前はつけられないと言っていた。
もし名前を付けるなら、「落合博満のフォーム」だと言っていた。
なるほど。
構える瞬間のバットの傾き、肘の高さ、テークバックの角度や大きさなど、感性を研ぎ澄ませて打撃を模索してきた落合博満らしいコメント。
一度たりとも同じでないものに名前をつけられない。
また、動的平衡のことを思い出してしまった。
常に移り変わっているが、その流れの中で維持されているもの、その流れ自体に対する他者の認識。
それが、名称の付いた存在のアイデンティティーだと思っていた。
日々変化し続ける落合博満は、落合博満だが、毎打席変化を続ける打撃フォームは、異なるのだ。
流れによる微々たる変化を感じられる、差分が決して0にならない、そしてその流れが常に環境に依存していることに自覚的である、そんな感性を備えた人を職人と呼ぶのだろう。