点取り競争の弊害

「その場でのよろこびはあるかもしれない。しかし、それはどの程度の力を用いて挑んだか。そして周りの人間は全力でやってもうまくいかないという人もいる。」

書いているときは、おはようございます。

もなりんです。

ここずっと、「自分が受けてきた学校教育」というものって何なのかなと思うことが多分にあります。

確かに、一般的にいい大学、それこそ東京大学、早慶、マーチ、関関同立、旧帝大などに行けば、平均的には高い年収をもらえることは確かですし、いわゆる一流企業の重役や政治家の多くの出身もそうでしょう。

そうした点取り合戦の、いわゆる「勝者」とでも言いましょうか。ずっと勝ち残っていった人がいいものを掴んでいきます。

でも、ちょっと待ってほしい。

「そういう高収入を学歴でとることができるのって、全日本人の何%?」

こう思わざるを得ません。プロスポーツの世界とかもそんな感じがします。

いい学歴をとっていったり、何かに飛び抜けた能力があってそれで飯が食える人はまだいいです。

では、残された我々みたいな大半の人たちはどうなのか。

これは、「ただの負け犬根性」が身に付くのか、「人生は諦め」というものと考えることしかできないのか。

あるいは、「ただ与えられた、自分のできることしかやれない」人になってしまうのか。

人によっては、「学校が嫌」「会社が嫌」といって抜け出して、社会から溢れてしまいかねない(てかそうなりかけてます)。

そして「学歴は関係ない」といいながらも、結局能力があって残るのは大半が学歴がいい人ばかり。

では、残された大半のいわゆる一般人はどうあるべきなのか。

少なくともなにもしないのでは、ただ搾取されるばかり。

というより、何かしたとしてもよほどのことがない限りは搾取される側になるでしょう。

別に平等主義とかを訴える訳ではありませんし、文句を言って学歴をよこせとかいってもそれは有名無実のただのレッテルにしかなりません。

ただ一番気になるのは、

「学校でも平凡に終わってしまい、社会人になったときに、いかに視野が狭いなかで生活せざるを得なくなってしまうのはどうなのか」

ということです。

学校での成績に目が行きすぎてしまうと、他のことが見えなくなってしまう可能性が高いです。

そして、周りの人も同じように学校での成績を気にしながら生活していて、他の自分たちがもっと重要だと思うことができない。

そんな人ばかりが中途半端に多く生み出されてしまっている。

それが、今の世の中ではないでしょうか。

もちろん、これからのそれぞれの勉強などの頑張り次第ではあるかもしれませんが、やはり周りの広さを産み出せる仕組みを、どうしたらつくれるのでしょうかね。

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