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吸い寄せられるように河辺へ向かう

悲しかったり落ち込んだ時、ざわざわしてしょうがない時、そうでもない時も、昔から吸い寄せられるように水のあるところへ行く。

水辺の場にある海や大きな川の風景、そこはわたしにとって日常ではない景色が広がっている。
いま自分がどこにいるのか、次元的に分からなくなるというような感触。
この世とは別のところのような。

水面が揺れている景色の中に立つと、日々堅いものだと疑わずに歩き過ごしていた地面がゆらゆらと揺れている。特に最近よく歩いている隅田川沿いの遊歩道は、整備された歩道と川が同じくらいの高さになっている。砂浜や河原砂利などがないのでバツンと歩道と水面が横に並ぶ。歩きやすい舗装された道を歩きながらも横を流れる揺らめきを足元から感じる。
その水面のさらに下には深い空間がある。
空も水底も、上も下も広がっている。

水面のゆらめきと、からだを吹き抜けて通り過ぎていく風の流れと、とても流動的である。

初めて人を誘い隅田川沿いを歩いた後に言われたことがある。
いちばん最初に会に参加してくれたUくんが帰りの電車で「景色に情報量が少ない」と言っていた。
ハッとさせられた。言われてみればその通りなのだがあまり意識していなかったことだった。

街中の小道のようなところだと歩くほどにいろんなものに出会い発見があって、それはそれで楽しいのだが、大きな川沿いでは歩いても景色がすぐに変わらない。遠くにあったビルや橋が近づいてきたり遠ざかっていったりするのと、あとは空と水面がほとんどを占めている。

不思議なのは人工物に覆われたような隅田川の景色は、緑の茂みがあるような河原とはまた違った感触でなにやら冷静になれる。
リラックスというより落ち着くという言葉がしっくりくる。息が喉の上まで上がってきてしづらくなった呼吸が、下に落ちていきあるべき場所に着地し安定するのだ。冷静になるといった方が近いかもしれない。
(山歩きと隅田川沿いを歩くのでは身体の変化の過程が随分と違うので、これもいずれちゃんと言葉にしたいとずっと思っている。なかなか難しくて進まないが…)

それと水というのはどこかぼんやりと、抽象的な死の感覚がある。

それはものすごく漠然としたもので、現実的なものとは違う。
その抽象的な死の感触は、ひんやりしていてもどこか優しくて、結果今この場に着地させてくれる。メメント・モリという言葉を思い出す。
その景色と感覚の中、ただ歩く。


引き続き人とも歩きながら、体験を共有したり感覚を発見したりもしていこうと思う。

しかし川沿いに住んでいるような人、ここが日常の範囲の人にとってはここは生活の風景なのだろう。
どんな感じなのかちょっと聞いてみたい。


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