見出し画像

いちばん長い旅(3)

もし初めから読んでみたければ、前回までの旅はこちらからどうぞ。


オーストラリア行きの飛行機の窓から、闇の中にポッカリと光る東京の街が、だんだん小さくなって行くのを眺めていた。光が小さくなるにつれて、心のなかにあった張り詰めていたものが、だんだん緩くなっていくのを感じた。海外へ出て行くことを決心してからは、リサーチ、準備、各種手続き、付け焼き刃の英会話レッスン、そして送別会と目まぐるしい毎日を送っていた。そんなことをぼんやり思い返しながら、カタコトの日本語を操って、機内の大半を占める日本人乗客へサービスをしている客室乗務員たちを眺めながら眠りについた。

温かさを顔に感じて目を開けると、飛行機の窓のブラインドの周りに明るい光が滲んでいた。目を閉じている隣の人の様子を伺いながら、静かにちょっとだけブラインドを上げた。一気に流れ込んできた強い陽射しに戸惑いつつ、眩いその光の先に目を凝らすと、真っ赤な大地が広がっていた。人の手の入っていないその土地、を自由気ままに横断している、蟻ほどに見えるカンガルーが目に入ってきた。

やがて飛行機は早朝の、だけどかなり強い陽射しにあふれた空港に着いた。空港内の建物へ入ると、閑散とした質素なロビー、雑然と商品が積んである関税店や退屈そうにしている店員がいた。日本の忙しそうにしている店員さんや、いつも整然と並べてある商品を見慣れていた私は、こんな状態で商売が成り立っているのだろうかと、いらぬ心配をしたことを覚えている。Passport Controlでのやりとりは、事前の準備と練習のおかげで大した問題もなく終え、大きなスーツケースを引きずりながら到着ロビーへと向かった。

ロービーへ出ると、名前の書いてあるA4ほどのサイズのカードを持った、外国人たちがずらりと並んでいて一瞬たじろいだ。が、気を取り直して私の名前を探し始めた。あらかじめアレンジしておいた送迎車のDriverがいるはずだった。が日本人の書く丁寧なアルファベットしかみたことのなかった私は、各々の個性あふれる手書きのアルファベットを見て躊躇した。I だけをみてもいろんな書き方があり、上の点が丸だったり、ずんぐりとした点だったり、点がなかったりして、私には判読することがとても難しかった。

日本とは勝手が違う雰囲気の中で、カードを持った人たちに話しかける心の準備ができていなかった私は、彼らから少し距離を置きながら自分の名前を探した。明らかに外人の名前の中から、日本人っぽい名前の書いてあるカードをいくつか見つけ、それらの間を何回も行き来した。そしてようやく私の名前に近いカードを見つけ、その持ち主に話しかける心を決めた。

付け焼き刃の英会話レッスンで覚えたフレーズを思い出しながら、おそるおそる話しかけた。そのカードの持ち主は底抜けに明るく”G'day, mate!"というと、早口のオーストラリア訛りのある英語で何か言ってきた。オーストラリア人の英会話の先生に聞いていた通りのグリーティングだったが、その後は英語らしい音が耳にはいいってきたけれど何を言っているのかわからなかった。日本人にわかりやすいようにゆっくりと話された英語ではなく、ローカルの間で普通に話されている英語だった。

この瞬間から私の英語との本格的な格闘が始まった。地方の公立校で教育を受けてきた私は、英語は中学生になってから始め、先生の日本語訛りの英語しか耳にしていなかった。カセットテープから流れるネイティブスピーカーの英会話は、とてもゆっくりで、また不自然なやりとりで、当時海外への興味が全くなかった私は、英語の勉強に必要性が見出せなかった。だから英語をずっと避けて生きてきた。しかし新しい世界での生活と引き換えに、今まで避けてきた英語に向き合わないといけなくなった。

ネイティヴの英語が聞き取れないことに、オーストラリアに降り立った途端に気づき、どうやってここで生活していけるのだろうかと危機感を持った。日本で生まれ育って、日本語で滞りなく生活してきた日々。何気なく耳に入ってくる周りの音が、ちゃんと意味をなしていた生活。 日本では相手の意図すること、意味することを100%理解して、相手に最適な、そして的確な反応をしないといけないと思っていた。だから言葉をしっかりと理解した上で、その間に見え隠れする意図を理解することに意識を集中していた。

周りの人の会話、お店で流れてる音楽、そして私の英語力などお構い無しに話してくるオージーたち。異国の地では、まわりの音が音としてはいってくるけれども、それが私の頭の中では意味をなしていない。その音に対してどんな反応をすればいいのか、見当をつけることができずパニックに陥った。意味を成さない音に囲まれて、どう振る舞ったり、答えてよいかわからず、とりあえず日本人が取りがちな曖昧なSmileで切り抜けていった。

そして音が言葉として認識できなくて、周りの様子や相手の考えていることがわからなかったから、無意識のうちに微かな表情や、声のトーン、そしてBody Languageに注意を払うようになっていった。そこから和やかな雰囲気なのか、それとも険しい状況なのか、その人が好意的なのか、敵対的なのか、信じていいのか、怪しい人なのかとか伺うようになっていった。

皮肉なことに、日本ではちょっと鬱陶しく思っていた’察する’ことが、異国の地ではとても頼もしいツールとなっていった。が、ローカルと話さなくてはいけない状況になるたびに、全神経が戦闘モードになってフル回転していたので、ホームステイ先の家族や、外で人と話すたびに精神的にかなり疲れた。

そんな状況だったから、当時は語学学校が私のSafe Placeだった。そこでは私と同じように英語を習うためにいろいろな国(主にヨーロッパ)から来ていたクラスメートか、英語学習者に慣れている先生との会話が主だったので、Brokenな英語でも気兼ねなくゆっくりと話すことができた。また間違えてもお互い直しあったり、笑ったりして会話ができた。

日が経つにつれて、クラスメート(特にヨーロッパ人)がBrokenな英語でも特に気にせず、ローカルの人たちとコミュニケーションをしている様子を目の当たりにして、完璧な文法や発音を気にして会話を戸惑っている自分がとてももどかしくなった。また彼らに比べて耳が英語に慣れていなくて、彼らほど聞き取れていないことに愕然とした。そんな危機感と必要に迫られて、ようやく本腰を入れて英語と向き合うことになった。

やがてゆっくりと少しずつだけれど音が意味をなすようになり、語学学校の英語のレッスンがすぐに活かせる環境と、クラスメートにも刺激されて、恐る恐るながらBrokenでも気にせず英語を話すようになった。

こうして意味が日本語のように100%完璧に理解できない状況になってから、いろいろなことが完璧でなくても、クリアでなくても、人とコミュニケーションをとって生活できることがわかり、またそれがなんだか心地良くなってきていた。いろんな国から来た人たちが、お国訛りのある英語を話し、それを個性だと言ってくれる場所。また言葉の上げじりを取ったり、勘ぐったりしないで、間違いを笑い飛ばしてくれる。そんな環境で日本で作り上げてきた、自分の中にあった硬い殻が少し柔らかくなって行く感覚を覚えた。

(続く)

Photo by Thirdman from Pexels

いいなと思ったら応援しよう!

tomomixart
サポートありがとうございます🙏 いただいたサポートで取材と制作を進めることができます。