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夏の約束

朝日を浴びてキラキラと光る一台のバスが、緑に包まれた駐車場に静かに滑り込んできた。エンジン音が止まって静寂が戻ると、ドアがゆっくりと開き、ちょっと眠たそうな雰囲気を纏った人々が、ひとりまたひとりと降りてきた。

どの人もバスから降りると、大きく伸びをしたり身体を動かして、深呼吸をした。バスの周りにはいくつかのグループの輪ができてきて、にぎやかな会話の花があちらこちらに咲いていた。人々は大きなリュックサックの詰め替えをしたり、リュックのベルトを調節したり、登山靴の紐を締め直したりしていた。

やがて一人の女性がバスから降りてきた。彼女も両腕を上に伸ばし、大きく息を吸った。そしてグループの輪の間をくぐり抜け、ちょっと離れたところまで歩いていった。そこで登山靴の紐を固く締め直し、リュックサックをブンと振って彼女の肩に載せる。少し長めの前髪を手でそっと横に流して、朝日にあふれた空を見上げた。目の前には濃い緑色をした山がひっそりと佇んでいた。

朝のひんやりとした空気が首元を撫でつけ、彼女は身震いをした。そしてふとガイドブックで読んだこの土地の話を思い出した。この土地は昔から神様が降りてくる場所と崇められていて、たくさんの不思議な話が昔から語り継がれているらしい。彼女は背筋を正した。

どのグループもまだ地図を覗きながらその日の予定を確認したり、ときに歓声を上げながら、他愛のない話をしている。そんな様子を横目に見ながら、彼女は駐車場から延びていてる散策路の入り口へとゆっくり近づいていった。

まだ誰もいない散策路は、鳥のさえずりとカサカサと風に揺られた木々の葉音に包まれていた。木陰の下にはまだひんやりとした空気が漂っていた。散策路の幅がだんだん狭くなるにつれて、周りの樹木の重なりが次第に濃くなり、やがて草むらの間に静かに隠れている登山道の標識が現れた。

朽ちかけた標識は、木々のトンネルの入り口の横にひっそりと佇んでいた。彼女は標識の上を覆ってる枝にそっと触れ、登山道の入り口を確認すると、緑と陰に包まれた空間へ足を踏み入れた。

ひんやりとした空気の中を、草に覆われた頼りなげな登山道に沿って、彼女は一歩、また一歩と淡々と足を運んだ。登山靴が地面に触れるたびに密やかな音を立てる。そよそよとした風が木の枝の間を走り抜けると、サラサラとした音とともに木漏れ日が地面を照らした。

密やかな足音とサラサラとした風の音が木々のトンネルの中に流れている。目は草の間からチラチラと現れる曖昧な登山道を追っていた。道の両側の木々は一定のリズムでゆらゆらと踊っている。彼女はそのリズムにあわせるように、そっと足を動かしていった。

やがて登山道の先に、青い空の切れ端が少し見える場所が現れた。彼女はそこで足を止め、木々の間を見上げた。引きちぎられて薄くなった綿のような雲がゆっくり横切っている。とその時、目の端の方で、一本の木が大きく振れたような気配がして、その方向へと視線を動かした。彼女の目がその方向を見据えた瞬間に、そこに、”ある姿”、を見たような気がした。

彼女はゆっくりと頭を振って、”そんなはずはないよね…”、とつぶやいた。そしてあのニュースを聞いたときのことを思い出した。

その時彼女は友人との遅めの夕食へ出かけるため、ハンドバックにリップスティック、ハンカチ、単行本、携帯電話を詰め込んでいた。バックを閉じた途端に携帯のくぐもった着信音が鳴った。

友人がまた待ち合わせの時間に遅れるのか、と不機嫌な気持ちを悟られないように、声のトーンを少し上げ気味にして電話に出た。が、思いとは違って母親の声が聞こえてきた。でもいつもの陽気な母親の声ではなかった。彼女の胸の中にザワザワとした黒い雲が広がっていった。

電話先の母はそれまで聞いたことのないとても静かな声で、妹がロンドンのフラットの自室で亡くなっている状態で発見されたことを告げた。瞬時には何が一体起こったのか判らず、頭の中で母の言葉を何回も咀嚼した。悲しみが広がる前に、数日前に電話で夏に妹に会いにロンドンへ行く約束をしたことを思い出した。そしてその約束が、宙ぶらりんの状態になってしまった。

彼女は視線をゆっくりと周りの木々の間に走らせた。木々は相変わらずサラサラとした音を立てながらゆらゆらと踊っている。鳥のさえずりは小さくなり、木の葉の上に映る日差しが強くなっていた。登山道の先に身体を向き直して、リュックサックの紐を固く握り、少し躊躇いがちに足を踏み出した。

幼少の頃によく追いかけっこをして遊んだ妹。大恋愛の末の盛大な結婚式で、とても幸せそうだった妹。短い波乱含みだった結婚生活に終止符を打った妹。そして、昔から憧れていたロンドンで新生活を始めることにした妹。新しい友達、新しい就職先、同僚そしてフラットメイトとの同居生活を、電話越しにイキイキと語っていた妹。ようやく新生活が軌道に乗って、これからという矢先だった。

妹の思い出が、草に覆われてはっきりしない道のりを、より一層曖昧なものにしていった。足音、風の音、葉の擦れる音、そして彼女の呼吸。この一連のリズムの繰り返しがまた戻ってくるとともに、妹の思い出が次第に薄れていった。

が、そのリズムを崩すように、また木が大きく揺れる音がした。ビックっと身体を震わせて、彼女は足を止め、木々の間を見渡した。何層にも重なっている木々は、どんなものも隠してしまいそうだった。”何にもないじゃない”。彼女は大きな声で自分にいいきかせるように言った。

足音、風の音、葉の擦れる音、そして彼女の呼吸。再びこのリズムが戻った。

彼女がリズムと一体になった頃合いを見て、一陣の風が周りの木々を騒々しく動かし、彼女の目の前にポッカリとした空間が広がった。その空間が徐々に木でまた覆われていく様子をぼんやり眺めながらも、その縁に見覚えのある黒いスカートの端が翻ったのを彼女は見逃さなかった。

黒いスカートは木々の奥へ奥へとひらひらと進んでいく。その姿は黒い蝶々のようにも見えた。彼女は無意識のうちに黒い蝶々の後を追った。木々をかき分けて、無我夢中で追いかける。が、しばらくして蝶々は木々の間に吸い込まれていって、その先は、幾重もの緑と木陰の深い闇が広がっていた。

途方に暮れて立ち止まり、周りを見渡して、そして深い樹々の真ん中にいることに気が付いた。登山道らしきものは全く見当たらなかった。彼女の心臓の高鳴りがだんだん大きくなり、そよそよとした風の音やさらさらとした木々の音が聞こえなくなっていた。とその時、また何かが動く音が木々の間から聞こえ、恐る恐るその方向へ目を据えた。

そこには、お気に入りの黒いスカートを着た妹の姿がそこにあった。妹は穏やかな微笑みを浮かべながら、右手をゆっくりと上げ、そして彼女の左後ろを指差した。
その方向へ振り返ると、誰かの青いバックパックが遠くの木々の隙間から見えた。そして妹の佇んでいたほうへ向き直ると、そこには深い緑が静かに広がっているだけだった。

そして、この夏に妹に会いにロンドンへ行く約束をしていたことを思い出した。

Photo by Vanessa Garcia from Pexels

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