いちばん長い旅(2)
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どんなものもまわりにあるれるほどあって、とても便利で、安全で、全てがスムーズに動いている世界。居心地の良いはずの場所なのに、なぜかそこにとどまっていてはいけない気持ちでいっぱいになった。
でも、どこへいきたいのか、何をしたいのか、自分でもよくわからなかった。当時私の周りには、いわゆる”安定した生活”を送っていてる人が多く、自分の思いを話しても”大丈夫?”、”今のままでもいいんじゃないの?”とか”思い切ったことするね”といった反応が多かった。それを受けてちょっとあまのじゃくな私は、よりいっそうここから出ないと行けない、という思いに駆られていった。そしてその強い想いのままに、インターネットと本屋さんの間を彷徨いながら、私の居場所を見つける旅をはじめた。
とにかく今ままでの生活とかけ離れた、知っている人が全くいない環境に身を置きたかったから、”海外”ということは早々に決まった。そこなら今ままでに作り上げてきた”自分像”に捉われることなく、自由に生きることができるように思った。ただ海外へ行くといってもいろいろな手段がある。ワーキングホリデー、留学、現地就職、現地起業、バックパッキングなどなど。
この頃は海外生活をある程度経験したら、また日本へ帰ってくるものと考えていた。と同時に、戻ってきてまた同じような仕事に戻りたいのかとふと疑問に思った。それまでやってきた仕事は、それなりにこなせていたし同僚にも恵まれていたけれど、心から楽しんでできる仕事というわけではなかった。だから海外生活を、日本へ戻ってきた時に、本当にしたい仕事をするための準備期間にすることも考えた。幼少の頃から絵を描くのが好きだったし、その頃は日常的にかなりの写真を撮っていたこともあり、アートの勉強をしたいという気持ちが沸々と湧いてきていた。
そして昔アート系の勉強をしたかったけれど、親に言い出せなかったことを思い出した。高校生の時、何人かのクラスメイトはアート系の学部を目指してデッサンの補習校へ通っていた。それを見て羨ましいと思いつつも、なぜか自分にはアート系の学部を受けたいと言い出す勇気がなかった。両親と進路の話を夕食の時にしていた時に、親が安定した職業を望んでいるのが何となく見えていたので、とてもそれを言い出すことができなった。そして自分にはそれほどの才能がないから、とても無理だろうと自分に言い聞かせていた。
両親は私が小さい頃からずっと働いていて、割と前衛的な考え方を持っていた。特に父親は女性もこれからは自立しなくてはいけない、とよく口にしていた。そのためか早く経済的に自立して親の負担を早く軽くしてあげたい、そんな気持ちがいつもあった。そして私はアートとはかけ離れた大企業の職につき、とても安定した収入のある生活を手に入れた。そしてようやく自立したし、そろそろ結婚の話が出てもいいのではないかという、親の想いが垣間見える頃だった。
そんな時期に当時の生活を一時的にも辞めるということを、まず両親にどうやって説明しようかと思案し始めた。仕事は残業、長時間勤務が当たり前の会社だったので、そこから脱出できるのは大歓迎だった。退職して海外へ行くことを考えたが、就職して両親を安心させたのに、無職になって親に心配をかけるのは心が痛んだ。だから安定した生活を中断して、海外へ行くというからには、帰ってきてからの安定した生活プランを提示できないと、いけないように思った。
またそれまでのキャリアを一時中断するというのは、当時はキャリアブレイクという概念がまだあまり浸透していなかったから、戻ってきた時にキャリア的に説明がつくことをしておかないとまずいな、とも思った。そしてあれこれ調べたり思案した末に、社内の語学留学休暇制度を使うのがいちばん妥当な選択となった。そして1年間、無給、休職扱いで海外に行けることになった。今にして思えば、この時まだ自分の心との間に、両親への遠慮、キャリアという雛型、そして世間体という垣根を作っていた。
とにかく体裁を保ちつつ海外で1年過ごせることになったので、そのころにはどこで一年過ごそうかということに私の関心は移っていた。語学留学はどんな言語でもよかったから他のアジアの国や、フランスドイツという選択もあったけれども、英語なら戻ってきた時にキャリアに役立つと思って英語圏の国にすることにした。
初めはイギリスやアメリカの有名大学附属のブランド力のある語学学校を調べていたけれども、そういった学校の日本人学生率の高さにちょっと戸惑った。そして日本人学生率の低い学校を探していくうちに、小さい街で多少不便だけれども、自然にも触れられるような土地が、東京とかけ離れた環境に身を置きたかった私にはとても魅力的に思えてきた。そして青い空と海に包まれた、夕日がとても綺麗なオーストラリアの街で1年間過ごすことにした。
ようやく両親に海外留学の話を打ち明けたころには、行き先、語学学校、旅費、学費、生活費の確保、ビザ申請の準備をほぼ終わらせていた。もし反対されたらどうしようかという不安はあった。しかしおそるおそる話を切り出したら、両親はあっけなく了解してくれた。今にして思えば、私にしては珍しく綿密に予定を組んでいたのと、一度決めたら考えを曲げない性格を見通して、反対する余地があまりないと思ったのかもしれない。
そしてこのとき両親への遠慮だと思っていたのは、実は自分の勝手な思い込みと、自分の本当にやりたい事をやりたいと言えない自分への言い訳だったのかもしれない、と思いはじめた。そんな想いを抱きつつ、両親や友人へ別れを告げてオーストラリアへ旅立った。
(続く)
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