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道徳とか正義じゃ、大事なものは守れない

久しぶりに朝のビーチクリーニングに出かけたら、釣り人が何人かいた。

この季節になると、キスとかタイとか釣れるのかな? 

波止からではなく、砂浜から針を投げて待機している人も多かったのは、高潮の影響で魚の出入りがまた違っているからなのだろうか。

釣りに詳しい人、今度教えてください。

で、私はその釣り人の後ろでゴミ拾いをした。

釣りをプライベートでゆっくり楽しんでいる人の背後で、ガランゴロンとペットボトルをゴミ袋に放り込む音がするの、失礼かなあ、、、と思いながらも、

ペットボトルゴミが信じられんほど打ちあがっているので、拾っても拾っても釣り人の後ろを去ることができない!(:(;゙゚'ω゚'):

申し訳ないけれど、嫌味すぎるポジションのまま、私はゴミを拾い続けた。

そして、こんな場所で食べ物にするかもしれない魚を釣るしかないこと、それを食べるかもしれない人(私たち)のことを、少しだけ想像した。

幸せは、そこに循環しているのだろうか。


同じ場所にゴミ拾いに行くっていうのは、なかなか面白い定点観測にもなっていいものだな、と思ったことがある。

少し前のことになるが、ちょっと間が開いてしまったので、今日は散歩だけで済まそうかと思ったいつもの場所にたどり着くと、

そこには、禁止されているはずの焼け焦げた花火の燃えかすと、アルミ箔の器のようなものと、飲食した後のゴミが、見事に、ある意味完璧に、散乱していた。

「えええええ」

って、誰もいない海岸で、私は一人、声を漏らしましたよ。

こんなお手本みたいな「ゴミのポイ捨て」が、できるんだ・・・

そんな気持ち。と同時に、この地域に燻っている「孤立」と「孤独」について、考えこんでしまった。

例えば、その現場の写真を写真に撮って、SNS投稿して、「おい、どこのドイツや、お前がカスや!」っていう文言とともに「ゴミ捨て厳禁!」と訴えることも、一つの手段としてした方が早いのかもしれない。

だけど、それで解決するとしたら、それは私の中に生じた怒りの持って行き場が見つかったってだけ。

海は、広い。そして深い。
生命の誕生を、担うほどに。

ゴミを捨てても、何も思わないのだとしたら。
もしかしたら、その時のテンションやノリで、「本当は捨てたくないけどみんなに置いてかれたくないから・・・」という気持ちの子が、一人でもいたのだとしたら。

そういう人たちに、決定的に欠けているもの。

それは道徳心なんかじゃなくて、倫理観や正義感なんかでもなくて

ただの想像力だっていう話です。


もしかしたら、私はあの現場を見たとき、やっぱり怒っていたのかもしれない。海をこれ以上汚してどうしたいのか?と。

でも、それすらも、もう無駄なことだと思ってしまった。怒りをぶつけることではなく、私には、私にできることで、地域の自然を暖かく守っていきたいと思った。

誰かに、責任を押し付けて、全うできていないと責め立てても、誰も育たない。自分の頭で、考え、選択し、行動しない限り。

だから、夏休み、ちょっとだけ楽しくゴミ拾いしたいなって思ってます。早朝の、現地集合、現地解散のやつ。ラジオ体操の文化も無くなってきていることだし、親子で、体操がてら、ゴミを拾って、その後よかったらコメダ珈琲さんにでも行こうぜ。

っていう、それだけのことですが。

環境は、もう、悲鳴を上げているよ。もう今の子供たちが大人になった時、今のままの環境を維持していることの方が、怪しい。

私どもを育んでくれている自然に感謝を込めて、夏の早朝クリーニングを軽くやってみたいと思ったのはそんなわけです。







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