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団塊の世代から受け継ぎたくないもの。迷惑かけて生きていくよ

母親が、76歳の誕生日を迎えた。

8年ほど前にパーキンソン病を発症してから、人前に出るのを恥ずかしがって、人が集まる場所やお店に、家族の介添えなしに行くことはなくなった。

ほぼ病院と、スーパーと、自宅のローテーション。杖があれば何とか前進もでき、手押し車があればイオンも歩ける。

子どもの頃から、この母親とは何となく馬が合わず、今も関係が近いわけではない。一緒にいるとしんどくなることの方が多いので、できるだけ距離を取る。

パーキンソン病だからといって、私が常に気遣って何かをしているわけではない。その方が、お互いにとって幸せなのだよな。


微妙な距離感ではあるけれど、ここまで我が家が倒れずにきたのは母親が真面目で、世間体に忠実で、仕事をコツコツとこなす人だったおかげなので、

スシローで手巻き寿司セットを注文し、お祝いに金一封(母はモノより現金主義)を包んで、娘も早く帰ってきてもらって、お祝いした。

小さなパーティはつつがなく終了。

形式的にではあるけれど、一つの行事をこなせるとほっとする。お母ちゃん大好き!とはすすんでは言えないけれど、「ありがとう」とは言える。感謝と、好き、は別もの。


そんな母親は今日、

「明日死ぬんやろか」

と何度も言った。

「死んだらこのお金、もらえるね!」と冗談混じりで娘が言うのを笑い飛ばすくらいの余裕はある家族なのですが。

母親は、つねづね誰かに頼り、何かに依存するようなことを、律して避けている。

友達も少ない。テレビや新聞だけが情報源。

本人自身がこれ以上の距離が近づくのを望んでいないのだ。甘える事も、甘えられる事もあまり知らずに、きっとそれを許されずに、自分にも許すことなく生きてきた。

自分が祝われていることを受け止めきれない母親を見ていると、もどかしいような、もっと気楽に甘えればいいのにな、と思わなくはない。

誕生日に限らず、お金が増えたり、何かをもらったり、「いいこと」が続いても、自分がそれを受け取ることに怖気付いてしまう。

自分が主役になどなろうものなら、

「こんなにしてもらって、胸が苦しい」
「申し訳ない」

そして

「明日、死ぬんやろうか」

不運や命と引き換えに、すべてのいいことを御破算にしてもらうつもりらしい。

団塊の世代。真面目に働いていれば、手元に現金と信頼が残り、人様に迷惑をかけずに済むと、それが自立した人の真っ当な生き方だと信じている。

そのような世代に、私たちは育ててもらってきたのだなあと、しみじみ思う。

そして、母親と同じような捉え方、感じ方が、いつの間にか染み付いている自分と、ひとり葛藤している最中である。


全く別の機会にやはり70代の方と話すことがあったのだけれど、その人も、「ご迷惑をおかけします」が口癖のような人だった。

誰かの手間を煩わせてしまうのは、言い訳の聞かない、こちらに非がある、申し訳ないこと。

そのように、教え込まれてきた世代。

それって、どこからきたのだろう? 集団主義や戦争。高度成長期。家族ならまだしも、それ以外の他人様に迷惑をかけるなと、そのような教えが美徳だった背景に何があり、何が一番影響を与えているんだろう。

突出した個人の能力を見ては「やっぱり育ちのええ人は違うねえ」「才能あったんやねえ、うちらみたいな凡人とは違う」で片付けて、自分にそのような能力があることは、死んでも信じられない。

彼らから、何が力を奪ったのだろう。


なぜこのようなことを考えるかというと、高齢者の孤立には「迷惑をかけてはいけない」という考え方がベースにあって

それが余計に、認知症とかパーキンソン病とかの病にもつながっているような気がするからだ。

誰にも頼らない「自立」が、誰かに頼らなくては生きていかれない状況を産んでいるかのような気がして。


宝物のような迷惑を、ありがとう。


澤田智洋さんの『マイノリティデザイン』で投げかけられた、この言葉。 

だれも迷惑をかけずには、生きていないのに。本当は誰かにもっと甘えたいはずなのに。

私たちは、団塊の世代に育てられた。もらったもの、教えられたこと、身についたことはたくさんある。でも、受け継ぎたくない考え方も、しっかりある。だからこそ、今から取り組めることもある。

とりあえず私は、迷惑かけて生きていく自分になりたい、と願う母親の誕生日である。








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