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私たちは「わかりあえない」世界で生きている
そういえば、結婚したばっかりの頃(つまり10数年前)、夫は、日本語の「が」と「しかし」の使い方(の違い)を理解するのに、2年かかったと私に教えてくれた。
これを聞いて、私は少なからず引いた。
つまり、「え、バカなんじゃないの」と素直に思ったわけだ。
見た目もそうだが、そもそもこの二つ、but とbecauseくらい違うじゃないかと。教科書読めば、例文も使い方も書いてあるじゃないかと。
私には、それがなぜわからないのかわからないし、わかったところでそのわずかな違いを説明することができない。
あの当時は「引いた」ですんだが、果たして質問された当事者(家族)だったら、結婚相手として認識できたのだろうかと思う(笑)。
そして今日、娘から数学の「不等号」の問題について質問され、同じような感覚を思い出した。
娘は、「より大きい」と「以上」の意味の違いがわからない、と固まっている。
言葉で説明しても、ぽかんとしたままでわからないのだというばかり。途中から説明の上塗りみたいになってきて、私にももう、何がわからないかわからない。こういうときは
問題から離れる
のが一番の対応策だと思い、口論になる前に私たちは外へ出た。(笑)
中国語のことは詳しくはわからないが、文化的に見れば、少なくとも中国は日本ほど「察する」国ではない。
こちらの拙い中国語がわかりにくければ
「はあ?」
と大きな声で聞き返されるのみ。そこに「本人は恥ずかしいだろうな」とか「周りの目もあるしな」とか、そんな配慮は一切ない。
他人であればあるほど、「その言葉のまんまの意味」を誰もが求めていて、「わかるようにはっきり言って!」が正義である。
今日、そのような中国文化ベースの二人の「わからない」を思い出して、これが低文脈・高文脈というやつかな、と落ち着いた頭でやっと考えられたわけである。
(↑ wikipediaより抜粋)
つまり、中国語は「伝達される情報は言葉の中で全て提示される」べき文化であって、「正確性」「論理」「明示」が鉄則。
に対して「非言語」だの「共通認識」だの「感情」だの非常に曖昧な要素がものをいう日本語話者の私にとって、
私たち家族の間には、揚子江ばりの大河が流れていると認識せざるを得ない。今日も茶色い泥水が滔々と流れ、お互いをわかつものになっている。
おそらく、夫も娘も「わからない」となったその瞬間、
「が」の意味よりも
「より大きい」の使い方よりも
文字が伝達する、それ以上の解釈をなしていないはずだ。
それ以上の意味が存在する、かもしれない、その発想に至っていない。
見たまんま、覚えてしまうというかね。そして、その時覚えた意味を、それ以上更新することが苦手というかね。
家族だからイライラしてしまうのは常であるが、私たちは国際政治をやっているわけではないので
そこで分断してしまう前に、この人たちの理解の方法が自分のとは少し違っていると考えられるありがたさを、最近は感じられるようになってきた(絶賛成長過程)。
毎度毎度、パキパキした日本語を話すのも、どこか味気ないし、面白味もないなと思うのだが、
「わからない」ことが、実は「全く理解できない」ということではなく、「は? 言葉になっていないのに? どうして?」っていう方に偏っているのだろうと思うことができる自分はとりあえず褒めたい。
ゆえに、とりあえず腹立つからほっとく。問題解決のために。
日中の間には、分かち難い文化的差異が不可視光線のようにある。アジアで一括りにすることすら憚られるほどの違い。
だからこそ、それを知り、それを認めたうえで「中国嫌い」とか「あいつ最低」とかやっと発言してほしいなと思うわけである。自分の言葉に責任を持つって、そういうことですよね。
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