誰かを応援したいという気持ち。私たちはアイドルに何を見るのか
今年に入ってすぐ、北村匠海くんの存在を知り(遅すぎる)、
まんまと胸を撃ち抜かれてから、北村匠海ウォッチャーである日々をすごして数ヶ月がたちます。
しかしながら、そろそろ
匠海くんの出演作や音楽に触れてキャッキャしたり、知り合いや友達など身近にいるたくみくんの名前を呼ぶときにテンションあがるようになった以外は、
あっさりと日常を取り戻しつつあります笑。
やっぱり染み付いた貧乏症というのがあるらしく、「沼にハマる」ということが最終的にはできないようです。
一定の「知りたい」欲が満たされると、そこでストッパーをかけてしまう。
沼には、底がないから。
と、そう思っているから。
オタクになりきれない、オタクに憧れる、一般人です。
昨日のこの番組も、偶然見かけてテレビの前でひとりやいのやいの言うてポッてなってましたが、私の「はまる」なんて乳児園レベルで。
ファンを公言するのもはばかられるというか。
DISHの世界にはきっと、彼らがまだ少年だったころから応援し続けていた人たち、文字通り育ててきた人たちがいて
どう考えてもにわかファンにすぎない私など、テレビでこうやってニヤついているのが一番よいのだ、と思ってしまいますね。
こだわることにこだわれない。こだわることを、怖がっている。
たぶん、そこから抜けなくなる自分が、余裕で想像できるからなんでしょう。ああ、一番怖いのは私自身です。
20代の駆け出しのライターだったころ、マジのガチでジャニーズオタクだった女性を取材したことがあります。彼女は当時30代だったかな。
対象はKAT-TUNの赤西くんで(のちに脱退)、撮影かねた取材のためご自宅にうかがったのだけれど、
うちわやDVD、CD、それも同じものが何枚も出てきて、私は無表情のまま「すごいですね」といって固まりましたよ。
貧乏人の子だった私には、成し遂げられなかった「浪費」が絵に描いたようにそこにありましたから。
けれど、それを浪費ととらえるか、愛ととらえるかは、人それぞれ。
散乱するグッズに囲まれながら取材を続け、
彼女が年何回ツアーを追いかけているか、ファンクラブのお局と仲良くなると出待ちのときどうなるか、など世にも奇妙な縦社会があることを教えてもらったりしながら、
それがどちらに属するものなのか、足りない頭で必死に考えていました。
しかし、私がすさまじいと思ったのは、
私がやはりこれは、愛とは違うのかもしれない?と感じたのは、この話を聞いたときです。
「彼がジュニア時代にね、たしかキンキのバックダンサーで踊ってる番組のビデオを見つけたんですよ。でもカメラワークはキンキ中心になるでしょう。その合間をぬうようにちらっと映るんです、赤西くんが。で、それを見つけたとき嬉しくて、その瞬間をもう何度も何度も巻き戻しては見て、巻き戻しては見て、気づいたら気絶するように寝て朝になってたことありますね」
っていうご本人は、どっからどうみてもケロッとしています。
夕方のスーパーに普通にいそうな、普通の主婦なのです。彼女にエキセントリックな見た目も言動も、みじんも感じられなかったことが、その内容の異常さを際立たせました。
謎が一気に深まった瞬間でした。
ビデオを繰り返しみて残るのは、そこだけすり減ったビデオテープでは、ないのか………?
いやいや! 彼女を前にして、そんなこと口が裂けても言うまい!
「ほほ〜、す、すごいですね」とまた、無表情のままなんかとりつくろった気がします。
このときの衝撃が今も残っているから、赤西くんがデキ婚してジャニーズ脱退したときに、真っ先に思い浮かべたのは、彼女のことでしたよ。
私たちは、アイドルやスター、画面の向こうにいる表現している人たちに、何をみてるんでしょうね?
なぜ、友達にも彼女にもなれる可能性のない、話すことも叶わないかもしれない相手にこんなに感情を募らせるんでしょう。
でも、このファン心理というか、会えも触れもできない相手に、想いを募らせるっていうのは、
人間の高度な想像力と感受性が影響していることに間違いないですね。
応援したい、という、少し軽めのものを想像してみて思うのですが、
私たちはそこに自分との共通点や共感を見出すから、応援したい、となるわけですよね。
アイドルや二次元の世界に憧れを募らせるのも、たぶん同じようなことで。
きっとそこに、自分のかけらを見つけているんですね。
想像してみると、すごくワクワクするんですたしかに。
あの美しい横顔の奥に、自分が惹かれている、自分のかけらがあると思ったら!
ファンクラブ入ったり、写真集とか限定盤かったり、することもできる年齢だし、自分で選択できる余裕もある今、
物質的に彼ら、彼女らを追いかけるんじゃなくて、
彼らの何に惹かれ、魅力されているのか、ベクトルを自分に持っていきたいな、とは思うようになっています。
結局、物をあつめても、分断だけがくっきりしていくような気もするのよね。
物を介してしかつながれないどこかに、行ってしまうような。
だからこそ、表現者として私の前に現れた彼ら、彼女らに、「私が」何をみいだし、何に惹かれているのか。
それを分析してみたほうがより、ファンとしての凄みが増し、本人たちに近づける感じがしているのですが
それは、もっと怖いことなのでしょうか?笑
なにはともあれ、日常の延長にあるエンタメには、やはり人は救われているということを感じずにはいられません。
映画館や劇場が、コロナと共存してありがたく盛り上がってほしいとそればかり思います。そして、表現者たちが存分に表現できる世界が、そこにあってほしいなと、本当に思います。