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文章も、「迷ったら捨てる」が原則

推敲段階にある原稿に取り組んでいる。

ちょっと前まで、自分なりに「いいものがかけた!」と鼻息荒くパソコンを閉じたものの…‥。

しばらく経って読み返したそれは、小説家を気取りまくった、余計な形容詞ばかりの文章だった。

同じようなことを何度も言っているし、感情がたかぶって過剰に盛り上げていたりもする。こ、これが、「ライターズ・ハイ」…!

かけた!と思った時点で自分に酔っていることに全然気づけない悲しみ。


原稿を書いてしまうと、どうしても「終わったー!」感が強烈に出てきたりするもので、そこで切り上げたい気持ちになることもある。

だけれど、原稿って実はそこから。入口。序の口。子どもの作文であれば、最後のマス目を埋めた途端、走り出して二度と机に戻らないのが美しい風景だけれど、

掲載される文章や多くの人に読まれる文章であれば、読者の身になって読み返し、読まれる原稿にまで仕上げていくことがライターの責任ですね。

とにかくまあ、しばらく寝かしておいた原稿が泣きそうなくらいの状態だったので、こちらの本を読み返し、初心にかえろうとしたわけでありまして。「推敲」のチャプターのところで耳の痛い話が続きウッてなりましたが、いま読みなおしてよかった。


ちなみに、この本を参考に取り入れた「すぐに実践できる推敲スキル」としては、

◎一度書いた文章をパターンを変えて3回読み直す

(詳しくは本書にて)。

特にやってみてめちゃくちゃ発見だったのは、できるだけ掲載されるフォーマットに設定して読み直すこともそうなんだけど、文字組みやフォントを変えて読み直すことで、爆発的に文章の印象が変わり、ミスを発見しやすくなった。

例えば、それまで明朝体で打ちこんでいたなら、読み返す時にはゴシック体にしてみるとか、縦組みだったものは横組みにしてみるとか。ときどき、このnoteの下書き機能も活用して、画面上での印象を変えて、チェックしてみたりもしている。

さらに、加えて音読も。なかなか面倒な作業かもしれないけれど、最低限これらのことは実践するようにしている。というか、そうでもしないと、おっちょこちょいは治らない!


「推敲」とは改めて「書き手としての自分を捨てる」ということだった、と思い出し、自分に言い聞かせているところです。

必要なのは、「読者の目線」であり、「書き手の目線」じゃないんですよね。

おもしろいのか、わかりやすいのか、意味やロジックがつながっているのかという、完全に「読み手」としての意識だけが推敲では求められる。時間をおいて寝かせる、というのも、「読者」としての目線を呼び起こすためでしょう。

とはいえ、私には、ちょいちょいある。

大した文章力もない自分でも、「そこそこ書けた!」って時が。「ここはうまいこと表現できた!」みたいなことが。

普段の自分ではなかなか思いつかない表現や言葉を引っ張ってきて、非常に満足している文章を書いてみても、読者の身になって改めて読み返してみると、さほど上手くなかったり、むしろいらない説明だったりする。

そういう時、

「せっかく、こんなに上手にかけたのに・・・」

という書き手の意識が邪魔をして、推敲がいっこうに進まない時が、私には、ある。

しかし、推敲に「もったいない」は禁句である。読者はあなたの「苦労」を読むのではない。そしてあなたに支払われる原稿料は、「苦労」の対価ではまったくない。そこに投じられた時間や労力に関係なく、読者はただ「おもしろいコンテンツ」を読みたいのだ。こんなにがんばったとか、こんなに苦労したとか、これだけ時間をかけたとか、そんな書き手の事情はどうでもいいのである。

(古賀史健著「取材・執筆・推敲」(ダイヤモンド社))

はい!申し訳ありませんでした!「迷ったら捨てる」を原則にいきます。

そうやって削ぎ落としていった先に、贅肉のない、研ぎ澄まされた文章に、書きたかった表現に出会える。それもまた、苦悩の末の、感動するできごとの一つなんですけれど。とにかく頑張ります。

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