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「たとえあなたが何者でなかったとしても、好き」

最近、同じようなトピックスが気になっている。気がしている。

たとえばこういう話だ。

"努力しなければ自分のアイデンティティを見失うということは,やはりあってはならない"

あかしさんのこの記事も、同じカテゴリーに入っている。

「人からの期待に応える」ことでしか、自分を認められない "

という話を、「#旅と写真と文章と」のコミュニティでぽつり、とシェアしていたら(#旅と写真と文章と、という名前のコミュニティではあるが、その3軸のいずれか、または組み合わせに惹かれて集まる人たちの場、と考えているので、こういう話も普通にする)、「じゃあこういうことも重なりそうですね」とことみさんが教えてくれた。

"「あなたが何者でなくとも、
 わたしはずっと好きだよ」

とふいにいわれて
心が泣いてしまった"

うん、そうそう。そういうことが、気になっていた。

あなたが何者でなくても、私はずっと好きだよ

これを言われたら、今にも泣き出してしまいそうになるひとって、じつは今多いんじゃないだろうか。

私は、今は泣かないと思うけれど、少し前なら泣いていたんじゃないかと思う。

これに反応してしまうのって、やっぱり大人になると『あなたは何者なの?』『何ができるの?』。もっと言えば『あなたはそれを以って、どんな能力交換ができるの? どんなベネフィットが与えられるの?』と、問われる場面が増えてしまうからじゃないかと、想像している。

考えると怖いから、まだ見て見ぬフリをしてたんだけれど、きっとまぁそういうことなんだろうな。

SNSが、ひとの好きを拡大して、意味づけを拡張して拡声させて、コアみたいなものをあぶりだしていく過程で、仕事、というか、対価とか付加価値、みたいなものを「生み出す」または「生み出せる」という事実を見せつけてきたことも、大きいと思う。

あなたはあなたのままで

私はあなたが何者でもなかったとしても、好きだよ

そう言ってくれるひとがいる救い。そういう、オアシスみたいな場所。

まるで、旅先で偶然出会って、気が合うね、なんて口にせずとも笑い合って、ブランチを食べて、スイーツに微笑んで、夕暮れの海をぱしゃぱしゃ、そしてそういえば、下の名前は知っていたけれど、はて連絡先は知らないぞ、というような。

それはちょっと、軽すぎるけど、まぁそれくらいの勢いで、「君が何者でなくとも」というような。

『あなたのことは詳しく知らなかったけれど、

居てくれて、出会ってくれてありがとう』

そんなフラットな関係性があれば。あるだけで、生きやすくなったりする時代、だったりして。いつもそうか?  うーん。

そんなことを、ふわっと考えたり、感じたりしている、最近。みんなは、どうなんだろう?


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伊佐 知美
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