魔法と呪文が街に溶け込んだ、おとぎの国【モロッコ・マラケシュ→フェズ】
モロッコ・マラケシュという街は、混沌と喧騒と渇いた愛にあふれた不思議な磁場であった、と離れゆく電車の中で、ようやっとこの数日の経験をことばにできる。
もちろん毎日文章は書いていたのだ。けれど混沌と喧騒の中にあって、刺激ばかりで身を守ることにも必死で、綴ればそこには私の内部と心情ばかり。街を形容するには、もう少し沈殿が必要なのかもしれないと思って、あえて無理矢理に完成させようとはしていなかった。
写真も、今回は控えめだ。と言うと、「いやいやそれでもたくさん撮っていると思うよ」と人は言うだろう。けれど目の前の景色ガラリ変わりすぎて、すべてが目新しく目を見張るものばかりで、もはや「私は何を撮っていいのか状態」。しっかりと見定めて「記録以上の撮影(何のためにかは知らない)」をするためには、私はまずしっかりとマラケシュで起こっていることを目で見なければいけないような気がしていた。
写真は撮る人の心を映すと思うから。事実、数泊してからの写真の方が、私は自分の写したものがとても好きだった。
窓の外流れる広大な景色はほかのどの国にも似ず、砂漠と芝生交じるような不思議な丘と山と色の中で、馬や牛や羊や人々が、ゆったりと歩いていた。
春のはじまりの季節だからなのか、空気はあまり澄んでおらず、乾いた空気の中に多少の砂と穏やかな笑みと会話あふれ、それらは平和そうに見えるのに、けれど一瞬でも気を抜いたらなんだかもう帰ってこられなそうな、ふしぎな危険性もはらんでいた。
安全な国だ、とはあまり言えない。もちろん治安はそこまで悪くないし、人々はおせっかいなほどやさしくて気にかけてくれるし、公共交通機関は意外と言うべきほど発達していて、空港から街、街から街への移動は、まるでバンコクや台湾、ニューヨークやパリなどと同じように、切符を買ってホームに出れば、完結するようになっていた。少し旅慣れた人なら、問題なく国中をめぐれるだろう。
けれどそうだな。その「旅慣れた」というところがポイントなのだろう、と思う。うーん……なんといえば伝わるかなぁ。
街並みや売っているもの、朝5時から街中に鳴り響くアザーンの声やありがとうを表すシュクラン、美味しくて手頃な食事、街中で簡単に手に入るフレッシュジュースやミントティー。カラフルで魅力的なバブーシュやジュラバ、カゴバッグに美しいグラス、邸宅を改装した宿のリヤドの内装や中庭の美しさに、屋上から眺める夕陽の濃さ。
そういったものはすべて、本当に、本当に魅力的で独特で、日本では決して出会えない文様造形色合い組み合わせばかりで、この国の中に身をうずめられたら、きっとなんだろう、世界が変わって見えるのかもしれない、と思わせるものだった。
物価も高くない。ここからここまですべて買うよ、と言えそうな値段設定の中。けれどどうしてだろう。一方でそれらがすべて表面上のもので、幸福と絶望の表裏一体のような。
「落ち着いて生きられない」。
そう、なんだか私はマラケシュで安心して生きられないと感じてしまったのだった。
そこには、いろんな要因やタイミングがあったと思う。
ひとつは「非日常が日常になり始めていたこと」。あとは、「日常を持っていないから、日常に入りきれない、とどこか冷めた目で見てしまっていること」。「ここは私の生きる場所じゃない」と、なぜか旅先をこれから生きる場所かどうか、という新たな目線で見てしまったこと」。などなど。
何言ってるか、たぶん、わかんないよね。わかるひと、いるかな。
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メディナのスークを歩けば、60秒に1度は目が合い話しかけられ、600秒に1度は腕を捕まれ、10人に1人は「ぼくは君のボーイフレンドだ。マラケシュにいる間のね」と口説い(客引きし)てくる。「just look, maybe」となぜかみんなメイビーと言い、ジュラバを着ていれば「ナイス ジュラバ」と「ジャパン カワイイ」を繰り返され、広場近くのツーリスト向け屋台では1万円するとふっかけられる民族衣装が、スーク奥深くのローカルのマダムに並んで買えば1000円になった。
足場の悪い道では「ぼくの後ろに乗らないか」と原付きがひっきりなしに止まるし、10ディルハムと明記してあるジュースを買ってその通りのコインを渡すと「いやいやもう1枚必要だよ」と怪訝な顔をされ、数秒考えたあとに「……いや、足りてるっしょ」と困った顔をしてみたら、「ジーニアスだね!シュクラン、ガール」と満面の笑み(しかも結構かわいい顔で笑うのだ)で送り出される。
サボテンの果実が珍しくて眺めていたら、「トライしてみる?」とやさしく手渡され、口にして楽しく会話した最後に、なぜかローカルの店に連れて行かれて「アルガンオイルをたくさん買おう(ぼくの店で)」と誘われる。 (誤解してほしくないのだけれど、ぜんぶ全力で楽しい出来事だ)
値段はあってないようなもので、美しいか美しくないかの基準もあいまいで、誰が信用できて誰が信頼できないのか、この食べ物は食べていいのか、その車には乗っていいのか、その角は曲がっていいのか、その階段は降りていいのか……
つねに「本当にそうなのか」を無意識に、けれど判断し続けなければ何かに飲み込まれてしまって私が変わっていってしまいそうな、そんな微細な緊張感と恐怖を、私はマラケシュでつねに持ち歩いてしまっていたような、気がした。
本当はもう少し、この街に長くいようかと思っていたし、いたい気持ちもあった。けれどモロッコを目指してこの国にきたら、もうひとつ別の目的地ができてしまった(のちにわかると思うが、それは地中海だった)。それを実現するために少し駆け足でシャウエンまで行こうと、その日、私は朝5時前に目が覚めたときに突然決める。
フェズへと向かう7時間の電車の中で、同じ車両にいる子どもたちがどんどんと私の周りに集まってくる。
みんな、ジュラバを着た異国のおんなのひとが、ひとりで、知らない文字を打ちまくったりカメラを構えたりしている様子が気になって仕方がないのだ。「ボンジュール」と挨拶する。
私のとなりに、6歳くらいだろうか、かわいい巻き毛の女の子が座る。日本語のガイドブックを見せながら、アラビア語やフランス語、日本語を教え合ったり、写真を撮ったり撮られたりを車中で繰り返す。
窓の外は、砂漠よりも植物がだんたんと多くなってきていた。渇いた南から、少しずつ海に近づく、北へ向かっているときだった。
はじまりの春の風に、草そよぎ。地平線まで続きそうな、なだらかな丘現れては消えゆく。羊の群れが飛び跳ねてじゃれあい、さきほどまで騒いでいた小さな子が私の肩にもたれて眠る。
「旅をしているのだ」と確認する。世界は本当に、美しくて広くて、見たことがないことがたくさんある。