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「何を選ぶか」の陰にはいつも、「何を選ばないか」の意思がひそんでる

「周りの友だちが結婚したとか、両親から結婚や出産に対して重圧があるとか、会社の人たちの目線が気になるとか。なんかそういうの、疲れちゃったんです。もういいやって」

婚活をやめた、と報告してくれた友だちの話を聞いて、そうだよね、と思った。うん、いいと思う。

「自分のため」じゃない行動は、ときに未来の自分をじわりじわりと、苦しめていく。

なんというか。何が正解とかはこの世の中になくて、何か正解に見えることも、角度を変えたら全部不正解になると思っていてね。

ぜんぶ、裏表やから。

だいじなのは、自分の選択を「ちゃんと納得感を持ってできた」といくつ思えるかだと思っていて。

なぜかというと、振り返った時に「誰のせいにもしない」「できない」ことって、結果的に幸福度が高い、と30歳を越えたくらいの頃から、私は考えるようになってね。

着地が「しあわせかどうか」ではなくて、「後悔が少ない」てのは、いいことよ。「だって私が選んだから」と前を向けるしね。

だから、可能性を広げることも大事だし、可能性を閉じてあげることもときには大切で。

ふむ。

「みんなといっしょ」とかはないから。

日本にいると、そう感じたりもするけれど。だって私たちは、国籍が同じだし、肌の色も、髪の色も、瞳の色も体格だっていろいろ似ていて、「みんなといっしょ」の尊さや安心感みたいなものを、知らない間に意識の間に滑り込ませてる。

でも、本当は、そうじゃない意味、「ライフスタイルの選択」という意味において、世界は広い。

選べる、という立場にいるだけで、そもそも私たちは幸福だったりするわけだけど。

こういう風に、生きられるようになったのは、心の底から願った長いながい世界の旅をこれ以上できないというくらい精一杯して、仕事を変えて、周りも変わって、世の中も変わってゆくのだということに納得がいくように。

そういうことを「そうなのだ」と受け入れられるようになった、30歳をやっぱり越えてから。つまり時間を重ねることで、解決してゆけるようになったからだと思う。

「悩む」と「選ぶ」と「決める」と、「その結果に対して想いを抱く」。その繰り返しが、私たちを少しずつ強くしていく。

「何を選ぶか」の陰にはいつも、「何を選ばないか」の意思が潜んでいる。

選ぼう、ときどき。何を選ぶかも、何を選ばないのかも。

その先にきっと、あなたの幸せのしっぽが揺れるのだと思う。

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伊佐 知美
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