子供と親の「遊ぶ」は感覚が違うかもしれないこと
最近、何かしていると突然情景が浮かんできます。先日浮かんできたのは、私の記憶の中で今のところ最も小さい頃のものではないかと思います。
私は言葉が話せるか話せないかなので、1〜2歳くらい。父と母が楽しそうに私の前におもちゃを並べます。
私は、遊んでくれるのかしら!と期待を膨らませてワクワクしています。
父と母はおもちゃを順番に私に見せます。
「ともみちゃんこれは好き?」
好きなら遊んでくれると思ってる私は、嬉しそうに笑います。
でも、遊んでくれません。父と母は別のおもちゃを手にして
「ともみちゃんこれは好き?」
これも遊んでくれるのかと思って嬉しく笑います。
でもやっぱりそのおもちゃでも遊んでくれません。
父と母は更に別のおもちゃを手にして同じ質問をしてきます。
私は、遊んでくれず、好きか嫌いかを聞くだけの時間がじれったくて、後半のおもちゃは
「いや!」
と言います。
父と母は言ってます。
「ロボットのおもちゃはこわいのかな」
そしてまた、始めのおもちゃに戻ります。
「ともみちゃんこれは好き?」
今度こそ遊んでくれる!嬉しい!
私は嬉しくてニコニコです。
でも遊んでくれません。
次にまたさっき2番目に見せたおもちゃを見せて
「これは好き?」
と言います。私は今度こそ今度こそ遊んでくれると思ってニコニコしますが、すぐ別のおもちゃを好きかどうか尋ねるのです。
私は遊んでくれないことに不機嫌になりました。3周目は遊んでくれないのが辛くて、泣きわめいてた記憶があります。
『なんで好きって言ったおもちゃで遊んでくれないの?もう全部キライ!』
でも言葉が喋れないから泣きわめきました。
「ともみちゃん眠くなったのかな、ねんねしようね」
それで終わります。
その情景を、あぁ私、こんな気持ちだったなと感じていると、それを少し遠い視点から眺めてみることにしました。
はっとしました。
父と母は、私におもちゃを次々と見せて、私と遊んでくれていたのかもしれない。
それ自体が遊んでいる行為だったのではないかしら?
父と母は、好きなおもちゃを次々と見せて、私を楽しませようとしてた。でもロボットあたりで不機嫌になったから、また最初の好きそうなおもちゃに戻った。でも私はどんどん不機嫌になって泣きわめくから、眠くなっちゃったのかなと思い終わってしまう。
おぼろげですが、このおもちゃを順番に見せる行為は、何度も何度もあったと記憶しています。
こうやって私は「お父さんやお母さんに遊んでもらえない」「どうせ私の気持ちは伝わらない」という怒りにまずつながっていったのかもしれないと、ふと思いました。
父と母は、二人とも長男長女で周りに子どもは居ない20代。手探りで2人なりに我が子と接しようとしてたに違いありません。
子供が思う「遊ぶ」と親が思う「子供と遊ぶ」は、しばしば相違があるかもしれない。
そうか、そういうことだったのか…。
そんなことをふと思って、絡んでいた糸がちょっとほどけるような、感覚を覚えた今日この頃です。
今日も長い独り言にお付き合いいただきましてありがとうございます。何か気づきになれば嬉しいです。