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実は私もオオカミだったという話。〜【読書記録】『診療室にきた赤ずきん』〜

『診療室にきた赤ずきん』(大平健)読了。
古本でしか手に入らない本となってしまいましたが、「ちょっとした心の不調」を持つ人にぜひ読んで欲しい本です。

概要

精神科医である著者の治療実践記録です。
著者の大平は、精神に不調をきたした患者を「赤ずきん」や「眠り姫」といった、昔話の登場人物になぞらえます。そして、治療の一環として、患者にその昔話を聞かせます(投薬も並行しながらの場合が多いですが)。

精神不調の場合、患者自身も「なぜ自分がこのように苦しんでいるのか」わからないことが多くあります。
そこで著者は、「患者を『診て』、物語を通して患者に患者の心を『見せ』る」という手法を用います。自分の心を見た患者は、「私って、こんなことで悩んでいたの? でも、考えてみれば、そうかも…」と、びっくりするやら、スッキリするやら。少しずつ癒されていきます。

感銘を受けた部分

大平の分析で深く感銘を受けたのが、「食」にまつわる昔話を「愛」の話として再分析してみせたところ。

例えば、赤ずきん。
通常であれば、「道草は良くない」とか「怪しい人の言うことを聞いちゃダメ」という教訓を伝え物語と解釈されるのでしょう。
例えば、オオカミと七匹の子ヤギ。
こちらも、「子どもが留守番をするときに気をつけること」なんていう教訓が導き出されるのが常かもしれません。

しかし、大平はどちらの物語も「愛に飢えた者が『自分も愛が欲しい』と嫉妬に狂った物語」と分析します。

動物のつがいや親子は、食べ物を与えるということにおいて結びつきます。「食べ物=愛」の図式です。
その点において、おばあさんの家にお菓子とワインを運ぶ赤ずきんや、食べ物を買って帰る約束をして出かける母ヤギは、「愛を与える者」。赤ずきんのおばあさんや子ヤギは「愛を得る者」です。
そして、その図式に割って入るのがオオカミ、「愛に飢えた者」です。

オオカミは、単に「弱い者を食べて胃を満たしたい者」ではありません。

胃を満たすだけなら、森で最初に会った時に赤ずきんを食べれば良いのです。
でも、わざわざおばあさんに化ける必要があった。(結果、狩人に退治されました。)
子ヤギを食べたオオカミだって、6匹の子ヤギを食べて満腹になったなら、さっさとどこかに立ち去れば良いのです。
でも、わざわざヤギの家にとどまって眠る必要があった。(結果、母ヤギにやっつけられました。)

どちらも、「食べ物(=愛)を持ってくる者の来訪を待っていたかった」と解釈できる、と。

もちろん、そんな方法で愛は得られはしないので、オオカミの胃袋には食べ物(=愛)の代わりに石(=死)が詰められてしまうわけですが…。

私のモヤモヤに「昔話」を当てはめてみた

これらの「お話」は、精神科を受診するところまではいかなくても、さまざまな悩みを抱えて不調を感じる私たちにも生かすことができると感じました。

告白すると、私はイライラ・モヤモヤすると暴食する傾向があります。
特に、夫絡みのイライラ・モヤモヤ。

夫は日本人にしては珍しく、「好き」やら「愛してる」やら、好意をきちんと言葉にして伝えるタイプです。
そう言ってもらっているのに、何だかイライラするということがありました。そして爆食、自己嫌悪。

今振り返って考えてみると私にとって、夫の発する「好き」は、「僕はこれだけ君のことを好きなんだから、君も僕を同じくらい愛してよ」というニュアンスを含んでいるように感じられ、心の中で私は「仕事と育児でいっぱいいっぱい!これ以上どうしろって言うのよ!」と叫んでいました。
夫が「仕事に文句を言いつつ、仕事で評価されると喜ぶ」ことを知っているから、夫の激務に目を瞑り、ワンオペの家事育児をこなすのだって私なりの愛情だし、休みの日に夫のゲーム時間に文句を言わないのだって私なりの愛情。
なのに、夫は「もっと愛がほしい!」と言っている(ように聞こえる)。夫に「好き」と言われれば言われるほど、自分の中の愛情が吸い取られていく。

ぷつーん…。

自分の心の中の「愛の供給源」がカラッカラに枯れていく感覚に苛まれ、それを補うように食べ物(=愛)を食べまくっていたのでした。

赤ずきんや子ヤギを襲ったりはしなかったものの、私の中にも飢えたオオカミが居たのでした。

オオカミを追い出すことは難しいかもしれませんが、「物語」を知った今、もう少し上手くオオカミと付き合っていける気がします。

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