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デザイナーやアートディレクターこそ人文知が必要になる — AI育成の動向から考えたこと —

作品の公開は自動的に盗用を了承するのか

先日Metaから運営するインスタグラムアカウント宛にこんなメールが届いた。

MetaのAI拡大に伴い、プライバシーポリシーを更新しました。
私たちは、AI at Metaの体験をあなたの地域に拡大する準備をしています。AI at Metaは、Meta AIやAIクリエイティブツールなどのジェネレーティブAI機能と体験、そしてそれらを支えるモデルのコレクションです。

あなたにとっての意味
これらの体験を皆様にお届けするために、私たちは今後、MetaにおけるAIを開発・改善するために皆様の情報を使用する正当な利益と呼ばれる法的根拠に依拠することになります。これは、これらの目的のためにあなたの情報がどのように使用されるかに異議を唱える権利があることを意味します。あなたの異議申し立てが尊重されれば、それ以降はそれが適用されます。
これらの変更を反映するために、プライバシーポリシーの更新を含んでいます。この更新は2024年6月26日に発効します。

ありがとうございました、
メタ・プライバシー・チーム

数日前からSNS上でイラストレーターたちがこのMetaの非倫理的な動きに異議を唱える方法を拡散している投稿を見ていた矢先だった。Metaの言い分としてはそれぞれのユーザーがFacebookやInstagramなどに「公に投稿している」情報しかAIの教育に使わないという。しかしポートフォリオがわりにこれらのSNS上に自分の作品を公開してきたアーティストやデザイナーにとっては、その蓄積が逆手にとられ、彼らの立場を難しくするかもしれない生成AIの開発に利用されるという状況にあるのだ。

このような水面下の動きはMeta側が「倫理的に」この意図をユーザーに通知したから気づいたようなもので、例えば他にもAdobeがユーザーが拒否しない限り、自社の生成AIのトレーニングにユーザーのコンテンツを利用している。(Metaの件同様、拒否する方法は非常に見つけづらい。)いま創作・発信活動に使っているサービスがいつどこで自分の作品を利己的に利用しているのかは、入念にチェックしないともう把握できなくなっている。

もちろん異議を唱えることは無駄ではない。MeTooやBLM運動、文化盗用への抗議などが、大きな企業や団体の決断に他者への尊敬や多様性・包括性の有無を義務づける土台を作らせたように、影響を受ける側が声を上げ続けることが、より多くの人にとって公平で幸福な社会の実現につながることは間違いない。

しかし、私としては企業の倫理観に訴えているだけでは長い目で見た解決にはならないと思っている。AIブームの車輪が回り始めた以上、それが飽和状態になるまでこの動きは止められないのではというのが正直なところだ。より多くの人が生成AIと仕事をする快感を発見し、広い活用を求めている現状を考えると、一度味を占めてしまったものを抑制するというのは、かなりのウィルパワーがないと無理だと思う。

私を含め、イラストレーターやアーティストたちがMetaの倫理性に異議を唱えつつも、そのサービスの利用をやめるとまではいかないように。

デザイナーとして、ビジョンを拡散していくこと

デザイナーとして、私たちは「コピーすること」を人間的な「願い」として大きく捉えていく必要があるのではないだろうか。

私自身、Letters from Nowhereという活動で新しい文化の創造における「人文知」の重要性についてさまざまな人と考えてきたが、このAIをめぐる動向を見て、デザイナーやアートディレクターこそ、「より良い社会をつくる生き方」を表現するための人文的視点が必要だと確信し始めている。

以前「フェイクの価値を今こそ熟考してみたい」という記事でも書いたが、私たちは日常的にコピーするという行為によって、「明日も生きていこう」と思うための高揚や癒しを得る。今日何食べよう、今日どんな服を着よう、といった日常の判断は、どういう人間になりたいかという願いが根底にあり、それには必ず他者の影響がある。どんな有名な画家もその回顧展を見れば、表現の追求とは、他者からの影響の吸収と再解釈の繰り返しであることがすぐにわかるはずだ。

先月参加してきたミュンヘンのデザイン雑誌nomadが開催するパネルディスカッションイベントは、今後のデザイナーのあり方についてひとつの示唆を与えてくれたように思う。

アートvsデザインというトピック自体は決して新しいものではないが、例えばミュンヘンの美術館Haus der KunstのアーティスティックディレクターのAndrea Lissoniの「アートは驚きを与え、デザインは助けになる」という答えは、今の時代にこの議論をすることの意味が集約されているように思った。

デザインが人を助けるとはどう言うことなのか。パネルたちはアートとデザインを大きく分けるとしたら、受け手との関係性であるという。アートは人を立ち止まらせ、考えさせ、結果的に受け手にとってのビジョンとなり「得る」かもしれない。一方で、デザインはビジョン「でなくてはならない」。ビジョンとは人がよりよく生きるための道筋であり、美しい生き方とは?の表現方法である。彼らの議論から、デザインをアートから分けるのは、受け手がビジョンとして「使える」ことであり、彼らの行動を助けるという点であると言えるのでは、と思った。

デザイナーが忘れてはならないのは、その表現能力のパワーと責任だ。デザインにおける著作権や知的財産の放棄を促したいわけではないが、どうせ利用されるなら、ポジティブなサイクルの影響になりたいし、良い社会のための技術開発に貢献したい。表現者として私たちは、コピーする・フェイクを作るという人間的欲求に短絡的に対抗する以上に、利用されることを前提に長期的な影響を想像して、より良い社会の実現につながる表現の質や意味の追求に努めるべきではないのだろうか。

だからこそ、これからのデザイナーやアートディレクターには「生きることとはなにか」「美しい生き方とはなにか」という人間としての問いに表現で答えられるような人文学的土台や視野が必要になると思うのだ。


最後になりますが、このように人文知から考える新しい社会のあり方を追求するプログラムの参加者を募集しています。私としては、特にデザイナーやアートディレクターの方に参加していただき、より良い社会を作っていくための表現方法を議論するデザイナー仲間を作りたいと考えております。ご興味のある方は以下のウェブサイトから、あるいはinfo[at]tomomimaezawa.com宛に私に直接お問い合わせください。

カバー写真はパネルディスカッションイベントの会場Haus der Kunstで開催されていたMartino Gamperの展示「Sitzung」の様子です。

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