わたしについて。
2023年1月 新卒で入社し、4年弱働いた超ホワイト企業を退職。
現在ジョージアという国に来て、PC一台でどこでも収入を得られる
ノマドワーカーになるため勉強中のノマドニア11期生です。
超ホワイト企業を辞めてまで、ここジョージアにいる理由を
書く前に私の生い立ちを説明?紹介?した上で、
どうしてこんな選択をするに至ったかを書いていきたいと思います。
(自分の頭の整理のための記録です。)
※ もともと文章には自信ないし、
実際書いてみたらダラダラ長くなってしまったし、
公開したくないくらいだけど、書いたからには試しに公開してみる。
※ ノマドニア ライター講座、ほんとに受けたの?ってくらい
何も活かせてないけど、自覚しているので、そこはご容赦ください。
生い立ち
1994年 新潟生まれの28歳。
父:中国人 × 母:日中ハーフで、自分は中国の血が濃いクオーター。
家庭では日中mix語が飛び交うが、幼い頃はなんとなく
中国に対していいイメージがなく、受け答えは100%日本語だった。
それでも、何を言ってるかはほぼ100%理解できる状態。
後々中国語できた方がいいな、と気づき、
大学で中国語を専攻し、上海へ留学することに。(後述)
小学校時代
よく喧嘩する悪ガキで(当時昼ドラでやってた
キッズウォーの井上真央ちゃんに憧れていた)、
習い事はフルコンタクト空手。小1から週4〜5で通ってて、
全国いろんな大会出てたけど、女子の部では基本トロフィー総なめ。
小4の時には新潟のローカル番組で取材された経験も。
小5で携帯電話(ガラケー)を持つことになるが、
買ってもらうことになった条件は、
小5の夏休み、4つ下の弟(小1)と二人きりで飛行機に乗って
中国のおばあちゃんち行ってきなさい、という
“かわいい子には旅をさせよ”実践系クレイジー両親。
そして無事これを成し遂げて、携帯ゲットした私。
負けず嫌い、人と違うことするのが好き、という性質はこの頃から。
中学生時代
中学でバレー部入って、空手はやめちゃったけど
バレー部の顧問がクソで、部活は大して頑張りもせず。
陰キャでも陽キャでもない中途半端な立ち位置にいたからか
候補者がいなかった生徒会副会長やってほしいと担任にお願いされて
一応なったけど、スカート短くするわ、あいさつ運動サボるわ、
先輩に目つけられるわ、で史上初副会長解任騒動があった(らしい)。
ちなみにテスト勉強は、事前に立てた計画通りにしっかりやるタイプ。
親に「勉強しろ」と言われたことない。むしろ
「そろそろ勉強やめて早く寝なさい」ってよく言われてた。
生徒会だし(一応)、勉強はある程度できるし(テスト勉強オタク)
てことで、内申点は高かったので高校は推薦で第一志望合格。
高校生時代
高2でALTのイケメンDavidと運命的出会いして(長くなるから割愛)、
英語担当の可愛いタケウチ先生が好きで、英語が大好きになる。
→英語も中国語もできたら最強じゃん!と大学は国際系へと決心
高校は進学校で、バイト禁止だったけどバイトしてたり、
よく早退したり、スカート短くして生徒指導室常連だったけど、
なぜか学年のキーマン先生には好かれて、
大学入試も推薦勧められて、推薦で第一志望合格。
大学生時代
大学入って、周りの友達が大学の提携校へ留学する中、
人と同じことをするのが好きじゃない私は、
1年間休学してカナダ・トロントへワーホリへ。(当時TOEIC430程度)
最初の4か月語は語学学校に通って、その後、思いつきで
WWOFに登録して、1か月カナダのど田舎でファームステイ。
残りの約半年はローカルのベーカリーカフェとジャパレスを掛け持ちして
1年あっという間に終了。
振り返ると、職探しもトントン拍子に進んだし、
ホームステイも、ファームステイもシェアハウスも、職場の人も、
すべての場面でいい人たちに恵まれて
苦労という苦労はせず、過ぎてったワーホリ1年。
→わたしはどこでも生きていける!という自信になった
そして帰国して、普通に大学3回生を過ごしていた時
なんとな〜く目に止まった「中国政府奨学金」の貼り紙。
中国政府が学費、寮費を負担してくれて、
さらに1年間毎月4万円のお小遣いをくれるっていう。
すっげ〜〜って見てたら、たまたま
それを担当してる教授が通りかかって、
1枠余ってるからどう?
ということで、締め切りが3日後くらいだったけど、
なんとか中国語で志望理由書き上げて提出→選考通過。
ただ、上海の大学に行きたいのに提携校じゃない、ということで
まさかのもう1年の休学が決定。
トロントのワーホリが楽しすぎて、そこが人生の最盛期だと思ってたけど
上海での生活も毎日が楽しくて、楽しくて、、
中国人の適当さが心地よくて、上手く表現できないけどしっくりきて、
ここではじめてやっぱり中国の血が入っているんだな〜って実感した。
上海の都会だけど、一つ路地に入るとノスタルジックな
古〜い街並みが広がってて、野蛮な汚みもある感じ。好きなんです。
わたし潔癖だけど、中国の汚みはある程度許せちゃうの。
これも多分なんかDNAとか言語化が難しい何かが
関連しているのかなあって。
→それもあって、将来的には上海に落ち着きたい。
大学で英語圏・中華圏と2カ国、1年ずつ留学して、
TOEICは最高820、新HSKは6級とったし、
最初から海外で就職してみようかなって考えもあったけど
一応日本人として生まれてきたし、これまでの人生、受験でも、留学でも
辛い経験や苦労したことってあんまりしてなかったから
就活や日本の堅苦しい社会でそういう経験してみたい
と思って、日本での就活を決意。
日本社会に合わなかったら(最初から合わないだろうと思ってはいた)、
さっさと辞めて、またワーホリにでも行けばいい。と
それと、20代のうちに海外勤務ができないなら
見切りつけて辞めてしまおう、とぼんやり決めていた。
就活の軸としては、英語と中国語、コミュニケーション力と
行動力を活かせるところとして、貿易か物流関係を最初みてて
東京へ説明会や早期選考を受けに行ったりしてたけど、
東京に通ううちに、「満員電車無理、、東京やめよ。」と早々になって
新潟でグローバルに働ける企業を探そう、と路線変更。
(地方の会社なら海外志望の同期ライバルも少ないだろうという作戦も)
新潟の合説に行ったら、同じ大学の卒業生が
企業の説明員として立っていて、たまたま
声をかけてもらった事をきっかけに、新卒で入社した会社を知り、
そのまま選考受けて、採用してもらった。
精密工具のメーカーで新潟県内に工場があって、本社は東京。
その他国内外に工場や営業所があるから、
外国語使う機会もあって自分の軸にはぴったり。
もともとは工場の管理部門(新潟勤務)での採用だったけど
営業向いていると思う!という人事からの提案で、東京本社の採用に。
しかも地方出身者ってことで会社の徒歩圏内に部屋探してくれて、
家賃7割会社負担で、電車に乗る必要もなし!
会社員時代
日本社会に揉まれたくて、入社したつもりだったけど
私が入社したのは超ホワイト企業。
嫌な上司や先輩、お局的存在の人はいないし、本当にいい人ばかりで
残業は少ないし、上司が定時で帰ってくから若手も帰りやすい。
営業だけど、半導体不足と言われている中で、
半導体の基とも言えるものだから売り込まなくても勝手に売れてく。
既存ユーザーのフォローがメインで、営業だけどノルマはもちろんない。
そして、外勤営業として女性を採用したのが私が一人目で、
扱いをわかっていないのか、甘い甘い。笑
めちゃめちゃ働きやすいけど、やりがいないな〜。
成長感じられないな〜。つまらないな〜。
そろそろ海外いきたいな〜。という思いが溜まってきた。
わたしが営業に配属されたのも、
会社として女性活躍推進なんちゃらに力を入れ始めていたからで、
早くから海外出張とか海外対応させる方針ではあったみたいなんだけど
コロナのせいでそれは無茶苦茶に。
コロナが落ち着いたら、、とはずっと言われてたけど
それがいつになるかわからないし、待ってられない!
と退職を決意するに至ったというわけです。
仕事のこと以外にも、今までの恋愛遍歴が
わたしを海外に押し出す大きな要因になっているので、
そこはまた別の記事に残していきたい。(自己満)
唐突ですが、以上です。