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母の旅立ち


元旦の始発新幹線で帰省し、仕事が始まる日の朝の新幹線で帰京し、その夜からコツコツ書き始めてみます。



備忘録として。
いや、忘れた時に備えた記録ではない。
忘れる訳がない。そんな事が突然起こってしまいました。


記憶として、いつまでも残しておきたい記憶として、記しておきたいと思います。


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令和6年の大晦日、母が天国へ旅立ちました。
69歳。余りにも早過ぎる旅立ちでした。




16年前に乳がんを患って以来、数々の治療や手術をしていましたが、基本的にはとても元気で、仕事にも勤しみ、町内の行事なんかでも忙しそうにして、東京にも何度も何度も遊びに来て、病気を患った事も忘れるくらいでした。


ですが、身体から完全にがん細胞が消える事はなかったようで、小さく、点々と、それはずっとあったようです。



その為、抗がん剤はずっとやっていました。途中、思ったように薬が効かず、ホルモン剤投与に切り替えたり、また違う薬を試したり、、、そんな十数年を過ごしていました。



それでも、やはり元気で明るい母。
幾度も入院や手術を乗り越え、いつの間にかまた普段の生活に戻って元気に過ごしている、離れて暮らしている私は、そんな風に思っていましたし、実際そうでした。





そんな母に、私も目に見えてわかる変化があったのは、約3年前。
ずっと続けている抗がん剤のせいか、その数ヶ月前に感染したコロナの後遺症のせいか、顎や歯の骨が痛み、頬も痛く、食事が思うように取れないせいでかなり痩せてしまった時期がありました。
元々そんなに痩せ型ではなかった母なので、痩せ細った母を見た時は流石に心配になりました




ですが、それでも明るい母。痩せている以外はいつも母でした。


車で遠出をするのが好きな父と共に、相変わらずぷらっと東京に遊びに来たり、大ファンのアーティストのライヴに行って盛り上がったり、個展に行き、グッズを沢山買った事を嬉しそうに報告してくれたり、楽しそうな毎日を過ごしていました。個展には私も一緒に行きましたが、とても楽しそうで、目をキラキラ輝かせていました。





ですが、2023年9月には左足のつま先が、2024年夏には足の皮膚が、抗がん剤の副作用と取れる感染症になり、手術や入院などが以前より多くなっていました。
でも、その時も「退院したらライヴに行くんだ〜」「だから手術も頑張れるんだ!」そんな風に明るく前向きな連絡が何度も来ていました。





異変が起こり始めたのは、今から数ヶ月前の夏以降。
母から「息苦しい事が増えた」と聞きました。ほんの少し歩くだけでも息が上がってしまう。
詳しく聞くと、肺に水が溜まっている。でも、急いで抜く程の量ではなく、むしろ体に傷を付けて水を抜く事を避けたい、主治医の判断で、すぐには水は抜かなかったそうです。




それでも、10月頭のLINEでは「お母さんは元気ですよ」という言葉があり、その次の週には、東京に3日間程遊びに来ました。
その間一度食事に行きましたが、明らかに前より痩せていました。でも、話す声はいつものお母さん。ちょっと痩せちゃっただけ。歩くのがかなり大変そうではあったけれど、大丈夫だよね、またいつもみたいに元気に復活するよね、そう思っていました。そう思い込みたい自分がいました。



ですが、その頃から原因不明の食欲不振で全然食べられなくなっていたそうです。
詳しく教えてくれましたが、想像を遥かに超える食事の少なさでした。そうなると体力も落ち、息切れも酷くなり、、、12月の9日に入院をしました。

もちろん、回復していく為の入院で、入院すれば、食事が毎食出るし、栄養を点滴でも入れてもらえるし、リハビリもあるし、私は少しずつ母の状態が回復していくと信じていました。
もちろん、本人もそう思っていたはずです。

でも、お粥にしたり、うどんにしたり、果物だけでも…ありとあらゆる工夫で、何とか少しでも食べようと頑張っていたみたいですが、食べると気持ち悪くなる、そもそも食べられない、でも元気になりたいから無理してでも食べる、そんな日々だったそうです。元気になる為とはいえ、本当に辛かったと思います。


そんな中、富山での仕事があって帰省出来た私は、12月の23日にお見舞いに行けました。
母の顔は痩せこけていました。足や腕は抗がん剤の影響で腫れ上がっていましたが、肩や背中も痩せ切っていました。

でも、声はいつものお母さん。明るくてトーンの高い、いつもの話し方で、私はそれで少し安心していました。今度は主食をパンにしてみる、手が少し痺れているから、リハビリで握る器具を借りてみよう、12/30〜1/3まで一時退院するから、その時に家で◯◯しなきゃ、そんな話を聞きました。



…が、それが母に会った最後になってしまうとは、全く想像していませんでした。
夫にも、「顔は痩せちゃってたけど、声は普通でね、ちょっと安心した、良かった」と報告していたくらいです。


12月27日、仕事中に父から二度も着信があり、慌てて休憩時にかけ直したら、操作を誤った間違い電話だと言われ、ビックリさせないでよ〜と伝えたら、その横にいた母に替わり、

『昨日主治医の先生にね、言われたんだけどね、もう使える薬がないんだって。もう充分使ってきたって。それでね、あとは【緩和ケア】だねって言われちゃった…。それがショックでね。。。』

と、泣きながら言っていました。



そうだよね、そっか、それは確かにショックだよね…うんうん、大丈夫大丈夫、また電話するね



それが母との最後の会話でした。



その夜に、私は緩和ケアについて調べました。
イメージとしては、緩和ケア=終末期ケアという風に思ってしまいがちですが、そうとは限らないと書いてありました。
痛みを緩和し、この先どんな風に病気との付き合いになるか、気持ちの緩和をし、少しでも明るく生きていく為の緩和ケア、そんな風に書いてあったので、母にもそれをLINEで伝えました。

そして、【治療方針を決めるのは先生だけど、命の長さはお母さんが決める事。病は気から!お母さんが生きたいと思うなら、その長さはお母さんが決めるものだと思うよ】 そう伝えました。

その返信はなかったので、母はどんな風に感じたか、今となってはわかりません。
より辛い気持ちにしてしまっていたら、本当にごめんね…と言いたいですが、気持ちの強いお母さんなので、『そうだよね、うん』と思ってくれたと信じています。

でも、身体の方は本当に限界だったようです。
最期まで私や弟の前では強がって、痛みに耐えていましたが、父の前では物凄く痛くて痛くてどうしようもない様子を見せていたそうです。


そんな母に対して、主治医の先生が、痛みを和らげてあげたい、、、31日の朝にモルヒネを打ったそうです。



30日に送ったLINEが既読にならず、31日朝に電話をしても出ない母。父に「何か知ってる?」と連絡すると、とても電話を見られる状況ではない、と。そして、意識レベルが下がってきている、そう聞きました。


流石に辛く、涙が溢れてきました。

元々年始は帰省の予定はしていませんでしたが、父からの電話の直後、明日元旦の始発で地元に帰る事にしました。私はその日・31日は18:30から日付が変わるまで仕事だった為、次の日の始発しか方法がありませんでした。


その後昼にも父から電話。
主治医の先生がずっと躊躇っていた肺の水を今抜いていると。これで少しは呼吸が楽になるかも、と。主治医の先生は本当に、母が少しでも楽になるよう全力で計らってくれていました。

15時頃には弟家族が全員でお見舞いに行ったそうで、その時にはモルヒネが効いていて痛がる様子もなく、静かに眠っていたそうです。

その夕方、肺の水が抜けて呼吸も楽になったのか、血中酸素濃度も良くなり、容態も安定して寝てるので、父は一旦自宅に戻ったそうです。
誰もが、このまま年は越せそうだね、そう思っていたと思います。


その少し後、父に病院から電話が。
呼吸数も心拍も、早いペースで下がっていったそうです。
家から病院までは、車で5分の距離。急いで病院に戻った父ですが、あと一歩の所で間に合わず…
母は息を引き取っていたそうです。




普通だと、呼吸数や心拍の下がり方はもう少しゆっくりのはずだそうですが、母の場合はそれが急激でした。身体が本当に限界だったんだと思います。




あと5分頑張ってくれたら父が、
あと一晩頑張ってくれたら私が、



…とも思ってしまいましたが、
この何ヶ月、本当に痛みを伴って辛い日々。
元々、私もいつも驚くくらい痛みに強い母でしたが、その母が痛くて痛くてたまらない、そんな状態から、モルヒネで痛みからやっと解放され、肺の水を抜いたおかげで呼吸も楽になり、ふぅ〜…楽になったなぁ、、、そのまますーっと眠っていったんだと思います。






12/31に、実家におせちが届いたそうです。
母がみんなで食べようと思って注文していたおせち。


他にも、パーカーが2着、母が自分用に注文したものが31日に届いたそうです。


12/30〜1/3まで一時退院するつもりだった、その後は身体の回復を見て退院する時期を決めるつもり、そう母は言っていました。



1月から始まるドラマで大ファンの人が主演をする、それを見るのを楽しみにしていました。




我々家族よりも誰よりも、母本人が、家に帰り、家でみんなで年を越すつもりでいたはずです。そうしたかったはずです。それを思うと本当に残念でなりません…。




でも、今はもう痛くない。やっと痛くない。呼吸も苦しくなくなった。そう思うと、やっと楽になれたんだね、良かった良かった、そう声をかけてあげたい気もします。




次の日(元旦)の午前9時過ぎ、痛みから解放されて安らかに眠る母に会えました。
抗がん剤で髪が抜けて長年ウィッグだった母ですが、父が「ウィッグよりもこの方がオカンらしいし、可愛いないけ(可愛いでしょ)」と、ピンクのニット帽を選んで被せてあげました。




今思えば、このような年始でなかったら、お通夜・お葬式・その後父や家族とゆっくり母の思い出話をする時間が取れなかったと思います。
元旦からしばらく富山にいられる休みがあったからこそ、ゆっくりと、母を見送る事が出来ました。




3年前に亡くなった祖母の時も家族葬でした。
参列したのは、私の両親と弟家族、全部で6人。
(私はコロナ禍だった事もあり、父にも帰省を止められたので東京から見送りました。)


今回もそのように想定していたそうですが、母の葬儀には、弟の奥さんの家族や、東京から母のお姉さん、長野からも親戚が足を運んで下さり、19人もの参列者の数でした。
もしかしたら、このような見送る日を年始にしたら、沢山集まってくれる、母がそう願ったのかなぁ、とさえ思いました。


息子が、「ばぁば、もうすぐ起きるかなぁ〜」と何度も言っていました。その言葉に、何とも言えない気持ちになりました。今思い出すだけでも涙が出てきそうになります…。

そうだよね、起きて欲しいよね。

「ばぁば、もう起きないんだ」
「ばぁばにありがとうって言ってね」
そう伝えると、お手手を合わせて「ばぁば、ありがと」と言っていました。
一緒にお焼香も出来たし、棺にお花をいくつも入れてくれたし、誰の手伝いも受けずに一人で、長い箸を両手に一本ずつ持って、驚くほど上手に、お骨を壺に入れてくれていました。




火葬の直前、最期のお別れの際、父から母への最後の言葉は、

「先に行って待っとって」

でした。




すぐについて行ってしまうのは困りますが、いつかまた再会しましょうや、そんなしばしのお別れの言葉を、父は母にかけていました。





私はというと、まだまだ尽きない母の回想にふける毎日が続いてしまうかもしれません。

もう、痛みのない世界で、先に旅立った祖父母達と再会し、穏やかに過ごしてるんだろうなぁ…良かったね、と思えるのはもう少し先になってしまうかもしれません。


とてもとても身近で、大切な母でしたから。




でも、「私が居ないと何も出来ないんだから〜」と、いつも母が言っていた父の事を、これからは支えていかなければなりません。母に心配かけないように、前を向いて頑張っていきたいと思います。





お母さん、本当に本当にありがとうね。
どうか、安らかに。。。

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