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短編小説「添乗員さん、何とかしてよ〜❗️」

 旅行会社に入社して12年目。ベテラン女性添乗員の風格漂うようになってきた、かどうかは定かでないが、経験と同じ程身体の脂ものり、体型的風格はかなりのレベルアップをとげている。そんなある冬の日のツアーだった。
 朝、お客様が集合場所に来ない。1名参加の佐々木様だ。
私が勤める旅行会社では、前日にご挨拶を兼ねたご参加確認のお電話をお客様に差し上げている。明日のツアーは、第一集合場所は東京駅、第二集合場所は新宿駅、という具合にバスが二箇所で停車し目的地へ向かうバスツアーだ。
『間に合わない時は新宿の集合場所に行くから、待たなくていいわ。よろしく〜。』
昨日の電話で、そう言っていたのを思い出し、1名のお客様不在のまま、第一集合場所の東京駅から第二集合場所の新宿駅へバスを進めた。新宿駅でも、他の方全員が集まり集合時間を10分過ぎても新宿駅の集合場所に現れない。「これ以上待たせたら他のお客様の迷惑になる。もう待てないな…。」そう思い、バスに乗り込もうとしたその瞬間、首に下げていた携帯電話が鳴った。会社の緊急連絡窓口からの電話だった。「あ、添乗員さん?添乗員さんのツアーに申込みしている佐々木様からお電話があり、新宿の集合場所に向かっています。携帯番号を聞いたので連絡して何とかしてあげてください。」急いで今教えられた佐々木様の携帯番号へ連絡すると、佐々木様が電話に出た。「今タクシーで向かってます!」というのだ。私は特にご年配のお客様へは、誰でも聞き取れるよう通常の3倍位のスローペースでゆっくりそしてはっきりと話すことを心がけている。
「すいません佐々木様、今どちらで、あとどの位で到着できそうですか?」私はゆっくりはっきりした口調で質問した。新聞広告やパンフレットで参加者を募集するいわゆる募集型企画旅行は、パンフレットを見た知らない人同士のグループが集まって1台のバスでツアーを成立させる主催旅行のツアーで、そこでは遅刻厳禁だ。長く待っても10分まで。それ以上待つことは禁物だ。たかが10分されど10分だ。ほかのお客様に迷惑がかかるどころかツアーの運行上支障をきたすのである。
「あと10分位で到着するんで。よろしくね〜」と佐々木様。お友達との待ち合わせかのように気軽な声色だ。
バスの中でお待ちのお客様は、「まだ出発しないのか。。。」、という面持ちで、数名のお客様がバスの大きな窓から外の受付場所で通話しているこちらの動向をちらちらと気にされている。これ以上は待てない。心苦しいが、
「他のお客様もいらっしゃるのでこれ以上お待ちできません。ご返金等に関しては担当者から連絡をお入れします。大変申し訳ありませんが出発させて頂きます。」
と伝えると
「ああ~、そう…。分かりました。じゃあ諦めます。。。」
と素直に聞き入れて頂けた。たった10分、でも待たされている他のお客様からすれば、貴重な10分。申し訳ない気持ちも大きいが、やっと出発できる、と胸を撫で下ろし、バスでお待ちのお客様に遅れた謝罪をして出発した。このツアーは八ヶ岳行きの高級バスツアーだ。八ケ岳のラグジュアリーなホテルでのランチ後、バイオリンとピアノのコンサートを聴いてそのホテルに宿泊するツアーだ。「コンサートの時間もあるし少し行程を押して進めないとな…。よし頑張ってこの後のバス車内を盛り上げよう!」、そんなことを考えながらバスは出発した。

ツアーバスが新宿駅を出発して15分ほどたった頃、再び会社からの電話が鳴った。『今、1名参加の佐々木様がタクシーで添乗員さんのバスの後ろを走ってます!談合坂サービスエリアで合流してください!』
との連絡。通常、遅刻者や同行者等がツアー本体と後から合流する場合(通称、後追い)、第一観光地で合流するとか、1泊目のホテルで合流することが多く、そのようなことは私も何度か経験があった。しかし、タクシーで今走っているバスを追跡するお客様はそうそういない。そんな事をしたらせっかくお得なバスツアーの旅行代金より高くついてしまうし、うまく合流できないことの方が多いので、そんなリスクを冒してまで追いかけてくる方はいないのだ。ビックリしてバスの後ろを覗こうとするが、あいにくこの日のツアーは高級バスでトイレ付。バスの一番後ろはトイレなのだ。おまけにトイレも広くて化粧台もついている。まさにラグジュアリーだ。だから後ろのタクシーを確認することができない。「本当に追いかけてきているのだろうか…?」そんな疑問を抱きながら、談合坂サービスエリアはあとどのくらいだろうか?と、ふと前方のフロントガラスから高速道路上にある案内板を探そうとした瞬間、目を疑った。バスの前をタクシーが走っている。「いた!あれだ!」しかもなんで後ろからバスに後続せず、前を走っているのか…、連絡の行き違いなどで、もしバスが談合坂に入らなかったらどうするのだろうか…、などと考えながらも、先ほど連絡した佐々木様の携帯番号へ急いで連絡した。談合坂サービスエリアはもうあと1km程先に迫っている。高速道路ではあっという間だ。
「佐々木様ですか?添乗員です。談合坂で合流とのことで指示を受けました。
後ろを振り返っていただき、私達のバスを確認できますか?あ、見えましたね。良かったです。2つお願いがあります。
まず1つ目に、バスが着いたらタクシーをバスのすぐ後ろに停めて下さい。バスへご案内します。
2つ目は、他のお客様もいらっしゃるので、タクシー代の精算などスムーズにできるようお支払いのお金をお手元にご用意いただき、今のうちにご準備をお願いします。」
もう談合坂サービスエリアに着いてしまう!矢継ぎ早に必要事項を伝えた。もはや3倍ゆっくりはっきりルールは存在しない。
会社から渡されたお客様名簿の佐々木様の欄には「杖利用。他の方よりも歩くのが3倍程遅いので要配慮&サポート」との情報が書かれていたのでできるだけ短時間で少しでもスムーズに乗り換えできるよう、手はずを整えた。佐々木様にはスムーズに乗り換えるための必要事項を全て伝え、その後すぐにバスのドライバーさんにその旨を伝えた。ドライバーさんも「え~!?あの、前に走ってるタクシーでこのツアーを追いかけてるの?うそだろ~!?」と、驚きの表情だが無理もない。私も初の経験である。目的地までは距離もあるため、もっと先のサービスエリアでトイレ休憩のため停車する予定なので、急遽談合坂サービスエリアでそのお客様を乗せるためだけにバスを停めることになった。バス車内のお客様には集合に間に合わずやむなく「後追い」となったお客様がいらっしゃることを伝え、「列車の遅延が原因」ということにした。ツアー参加の年輩のお客様は、基本的に遅れた方への態度は冷たいのが通常だが「自己都合」と「列車の遅延」では、ご年配の方々の納得度は桁違いだ。タクシーまで使って追いかけてくれたのだから、佐々木様にはこの先の旅を楽しく過ごしてほしい。そんな想いで他のお客様が佐々木様に対して「自己都合の遅刻で後追いなんて人騒がせだな!」という感情にならぬよう嘘も方便という訳である。多少の経験がある添乗員であれば当たり前にする基本的な配慮だ。

談合坂サービスエリアに到着すると、なぜか離れた場所にタクシーは止まっている。佐々木様がうまくタクシーのドライバーさんに先ほど私が伝えた内容を伝えられていなかったようだ。無理もない。85歳なのである。急いでタクシーをバスのすぐ後ろまで手招きで誘導した。しかし、佐々木様はタクシーの中から中々出てこない…。タクシーの中を覗くと、高速道路代の計算や、回送費用などを一つ一つタクシーのドライバーが説明し、それを確認しながら佐々木様はようやくリュックサックからお財布を取り出し、財布の中の小銭を一枚ずつ取っては釣り銭入れに落とし、取っては落として、きっちりの金額になるよう指さし確認をしながら、佐々木様の視線と指が、財布と釣り銭入れ間を何度も往復していた。
そんなこんなでやっと精算が終わり、杖をつきながらゆっくり歩くのを横からサポートしつつやっとの思いでバスまでやってきた。バスのステップを上がる手前、耳元で
「大丈夫でしたか?お疲れ様でした。すいませんが、他のお客様の手前もあるので電車が遅れたことにしましょうね」
と伝え、バス車内へ誘導した。バスのステップを、通常の3倍くらいの時間をかけてやっとの思いで上り、全員の視線を釘付けにした瞬間、出てきた言葉は、
「いや~、参った参った。寝坊しちゃったわ。タクシーでやっと来たわ~。ようやく追いついたのよ。あははははは〜!」と大声で笑いながら、自ら説明した。一瞬にして張り詰めたバス車内の空気…。穴があったら入りたいというのはこういうときに使うのだろうか。その瞬間はまともに他のお客様の顔が見れなかった…。見なくても、冷たい空気、いや、ぶっとい槍が私に降り注ぐ。なぜか私に。。。

 そんなこんながありながらも、バスの大きな窓から遠くには雪化粧の山々のすばらしい景色が広がる。所々で周辺の見所やこれから行くホテルや今回のツアーの見所、お楽しみ、おすすめのお土産情報などを車内で紹介しながらバスは八ヶ岳に到着した。ホテルで優雅にイタリアンのコースランチを召し上がっていただいた後はそのホテル併設の音楽堂で、ピアノとバイオリンのコンサートだ。森に囲まれた素敵な音楽堂ですばらしい音楽を聴く。ガラス張りの音楽堂の外の景色は白樺の木々に雪が舞う白銀の世界。ピアノと外の雪景色とのコントラストがすばらしい最高のステージだ。250席ほどある座席には、私達のツアー団体30名の他、個人のホテル宿泊客が10名前後なので、好きな座席を選んで座れ、ゆったりと鑑賞できる、これまた贅沢な状況だ。最前列ど真ん中の席や一番端の席、みなさん思い思いに好きな座席を選んで、私もお客様の後方端に着席し、そして優雅なコンサートが始まった。
ガラス越しの雪景色、ピアノ、バイオリンの素敵なハーモニーで心が洗われるようなひとときの中、始まって20分ほどした辺りから、低音の雑音が気になりだした。私の座席より前方で、時折「ぐお~…ぐお~…」という低く響き渡る雑音。どこでしているのか、何の音なのか分からない。客席間をバタバタと探し回るわけにもいかない。座っていた後方席を立って通路側から低い姿勢で他の方の迷惑にならぬよう、音の正体が何なのか一列ずつ反対側の座席奥の方まで見渡しながら雑音の正体を探りに行くと…、佐々木様だった。
座席後方に仰向けで背もたれに首をうなだれ両手を大きく開いた体制である。まるでその体勢で会場全体の神秘のパワーを全て吸収して、それを身体の中で濁音に変換し老廃物と共にアウトプットしているかのようである。
音の正体は佐々木様の豪快ないびきだった。佐々木様は音楽堂のちょうど真ん中に座っていたため、うまい具合にいびきが会場全体に反響し、コンサートの美しい音色を完全にそして完璧にかき消すような豪快な濁音を奏でていた。
「会場でデトックスすな〜!」と心の中でツッコミつつ、何とか他の方の迷惑にならぬように早急に対応しなければいけない。ちょうど佐々木様の両隣の席は空いていた。低い姿勢で近づき、手前の左隣に陣取った。
「佐々木様。。。佐々木様!」とサイレントに囁きつつ、そっと→かなりきつめ、に早い段階で切り替えながら肩を揺らして起こす。「え?ああ、寝てないよ。寝てない。」と言いながらよだれを拭く。「とっても素敵ですからお聴き下さいね。」優しくそして静かにささやき、また寝ないように、と気を揉みながら佐々木様を見守っていると、大きな拍手が起こり、「休憩」のアナウンスが流れた。
トイレや再開時間の案内などのため会場入口で誘導&待機をしていると、男性のお客様が顔をしかめながら近づいてきて、
「添乗員さん、何とかしてよー。いびきをかかせないでもらえるかな、頼むよ〜。」
と、困ったように訴えてきた。お言葉はごもっともである。
「申し訳ありません、対処いたします。」と謝罪した。

休憩が終わる前、佐々木様の席へ行き、
「ちょっと後ろの席にご一緒に行きましょうか」と伝えたところ、佐々木様は意外にも快く受け入れてくださった。一番後ろの席でステージから見てやや右寄りの席へ先導しながら誘導した。私は佐々木様の隣に一緒に座り、そして再びコンサートの後半が始まった。
寝ていないか?ウトウトしていないか?確認したい。。。でもジロジロみると失礼に当たる。首は前を向いたまま、目だけ左真横いっぱいまでもっていき、佐々木様の様子を伺う。きちんと起きている。「良かった。。。後半はコンサートを楽しんでくださるかな」と、思いながらしばしコンサートを楽しむ。がその少しあと、また雑音がするのだ。。。やはりすぐ隣から。「またかよ〜!ツアーに寝坊するくらい寝たんちゃうんか〜い」と心の中でツッコミつつ、今度は佐々木様起こしのため身体ごと体勢を佐々木様へ向けて起こそうと「佐々木さ。。。」まで囁やいたところ、なんと佐々木様は目を見開いてしっかりとコンサートを聞いている。すかさず身体を縮め、疑った申し訳なさから少し会釈も入りながら佐々木様起こしの体勢からコンサート鑑賞モードの体勢に戻す。そう起きている。。。じゃあ。。。何の音だろう…?頭の中のモヤモヤと身体が連動するかのごとくおしりをモゾモゾさせながら座り直し、頭の中で左隣のお客様に関する状況分析に集中してみる。が分からない。。。
失礼にならぬよう再度首は前を向いたまま、見ていることを悟られないように、目だけ左真横いっぱいいっぱいに向け、状況の解明を挑む。更にじっと佐々木様の観察を続けていると、雑音の正体の解明に至った。
いびきには多少劣るものの、存在感抜群の鼻息だったのだ。鼻か呼吸器系のご持病がおありなのか?はたまた元々呼吸が深いのか?専門家でないので分からない。しかし時折ピアノとバイオリンの音がスっと止むその瞬間、「ブス~、ブス~」っとかなり大きな音が音楽堂に鳴り響く。しかし、寝ているわけではない。起きている。いびきではないので注意もできない。しかしコンサートを遮る音であることは確かで他の方の迷惑にもなりそうだ。どうしたもんか。。。と思案したあげく、失礼にならないように丁寧に丁寧に「口で息をしてみましょうか?」と優しく言ってみる。しかし佐々木様は黙って首を横に振るのだった…。それはそうだ。85年間続けてきた呼吸の仕方まで、初対面の添乗員に指図される覚えはない。しかし鼻息が響き渡る中でも、再び眠気が襲ってくるといびきも混ざる。もうこうなったら添乗員としてできることは何なのか分からなくなってくる。いびきの方が音がうるさいので、いびきをかき出したら膝や肩を優しくゆすって、起こす。また寝る、起こすの繰り返しだった。さすがにいびきの回数が多くなり、「佐々木様、お疲れでしたら会場外にもおイスがあるので、一度、ご一緒に出ましょうか?」と耳元でささやき促してみる。しかし、やはり黙ってゆっくり首を横に振る…。
アイドルの周辺にいる警備員がやるように強制退場していただくか?または無理やり起こすか?頭の中で可能なオプションを探すがどれも85歳のお御足が悪い高齢の方にできることではない、という結論に達する。
これ以上音が出ないように音が出たらすぐ肩を揺らす、出たら揺らすという具合に、もぐらたたき作戦を続けながら何とか大きな音に発展しないように続けていた。
継続は力なり。もぐらたたき作戦を続けていると、落ちる瞬間が分かってくる。音は落ちた後に発されるので、落ちる瞬間に起こせば音自体でないのだ。こうして佐々木様との絆を一方的に深めながらコンサートの時間は過ぎていった。

 大きな拍手の中コンサートは終了した。どうやら他のお客様には満足していただけたようだった。佐々木様を一番後ろの席に誘導したおかげで、佐々木様のいびきと鼻息は他のお客様にはあまり聞こえていなかったようだった。不幸中の幸いである。ホっと一安心し、その日はそのホテルに宿泊となった。夕食は、レストランでこれまた優雅なフレンチのコース料理。皆様、美味しいお料理をご満悦の様子。食事のおわる少し前、明日のご案内を兼ねて、各テーブルを周りご案内する。
「佐々木様、明日の集合時間には余裕をもってお越し下さいね。お部屋からロビーまでお荷物などお手伝いしましょうか?また、お部屋からよければ車椅子をご用意して移動のお手伝いをしましょうか?」と、聞いてみる。佐々木様のためというよりもはやツアー全体の行程のためである。
「大丈夫、大丈夫よ!車椅子なんてとんでもない!あはははは!」元気で明るい良い方だ。

次の日、東京へ帰る日。
添乗員は朝食前、レストラン会場入口で30分前からスタンバイして、お客様をお迎えする。佐々木様もご案内の朝食時間へは15分程遅れたが、ちゃんといらっしゃった。
「佐々木様、おはようございます。昨日はゆっくりお休みになれましたか?」
「いいホテルねえ。良すぎてなんだかあんまり寝れなかったわあ、あはははは!」
寝れなかったのはホテルのせいではない。コンサートの時、よく寝たからだ。笑顔をよそに心の中の私はそう呟く。
「本当に素敵なホテルですね。朝食のご準備ができておりますので、さあどうぞ。」
高級ホテルの朝食は洋食のセットメニューだ。高原の焼き立てパンの食べ放題も嬉しい。クロワッサンが人気で、外はサクサク、中はしっとりだ。窓の外の雪景色、コーヒーの香り、仕事で来ていても思わず幸せを感じる空間だ。できれば素敵な恋人とでも一度は来たい場所である。
「佐々木様、集合時間は11時ですので、遅れないように早めにご準備ください。よろしくお願いします。」「はいはい〜」ご機嫌だ。そして返事だけは良い。

集合時間は11:00。チエックアウトも同じ時間のため、ぎりぎりまでゆっくりできる。優雅な朝食後はホテル周辺を散策したり、部屋でゆっくりと寛いだり、お土産をみたり、と高級バスツアーのラグジュアリーなホテルでの朝の過ごし方は様々だ。
出発時間1時間前、佐々木様が気になる。お部屋に伺い、チャイムを鳴らした。チェックアウト準備確認&遅刻予防セーフティネットだ。しかし、応答はなかった。売店でお土産の買物か、またはお散歩か、朝風呂か。。。
佐々木様へのコミットはここが最後だ。あとはツアー母体のサポートやドライバーさんとの打ち合わせ、バス座席表の準備、ホテルチェックアウト等確認作業等があるため、このあとは佐々木様個人に集合時間までに来てもらう他ない。

出発時刻20分前。まだロビーに現れない方がいた。心配していた佐々木様だった。足が悪いので、ホテルの客室からロビーに来るまでは他の方よりも数倍時間がかかる。にもかかわらず出発間際のこの時間になってもまだロビーにいらっしゃらない、ということはかなり危険な匂いがする。これからカギをフロントへ返却し、飲み物などの精算の手続きもしなければならない。そして、難関は、ロビーからバスの乗車までの道のりだ。普通であれば、ホテル正面に停まったバスまでは1分もかからない。しかし佐々木様の状況は違う。ロビーからバスまでの道のりに加え、バス座席の確認、バスのステップ上がり、バス車内の自席までの移動、と超えなければいけないハードルが多い。
取り急ぎ客室へお迎えに向かう。佐々木様がちょうどドアを開けて出てきた所だった。「良かった!まだ荷物をまとめている最中ではどうにもならなかった。。。」
「佐々木様、お荷物をお持ちしますね」と半ばもぎ取りリュックサックを持ちながら、移動を促すがやはりお御足が悪いため、時間がかかる。部屋割の際は、エレベーターに一番近い部屋にしてある。それでもエレベーターまでが長い。ストライド(歩幅)は5センチ程だがピッチは意外と速く、急ぎ足で進む。
部屋からフロントまで、10分程かけてやっとたどり着いた。この時点で出発5分前である。

次の関門は、精算だ。佐々木様の先回りをして、先にフロントの係へ部屋番号精算の旨を伝え精算金額と明細出力を依頼する。佐々木様がようやくたどり着き、リュックからお財布を取り出すのを手伝う。佐々木様がお財布からお札を何枚か取り出し、フロントの受け皿にまず置く。そして、小銭をジャラジャラと受け皿に並べ始めた。まだ精算明細は出ていないが、先に準備してくれている。「良かった。先に小銭を出していればそこから言われた金額をすぐに渡せるし、佐々木様、昨日のタクシーの時よりも格段準備がスムーズだ。」
小銭を広げて数えやすくするお手伝いをしようと受け皿に手を伸ばそうとする私の手を佐々木様が自らの手で静止させ、横に静かに首を振る。「ん、、、これは。。。」昨日のコンサート会場での光景が一瞬フラッシュバックしたが、我に返り、伸ばした手を引っ込めて精算を見守った。
そうこうしていると、明細紙面が出てきた。
「お待たせいたしました。昨日の夕食時のビール2本、ワイン2杯、売店でのお土産、お土産の宅配便代、合わせて9,874円となります。」
「けっこう、飲んでるし!土産も買ってるなあ。。。」
と私が驚きながら見ていると、先に出していたお札と小銭が請求された金額とピタリと合ったのだ。「え?偶然?」夕食時のドリンク、売店でのお土産、おまけに宅配便代、購入場所・時期はそれぞれ別だ。自身で消費税まで頭に入れて覚えておくかメモして、最後に計算でもしなければピッタリあうことはない。心配していたチェックアウトは、思いの外スムーズに終わった。現在、出発時刻ちょうど。他のお客様は既に皆さんバスに乗り込んでいる。ホテルに全員のチェックアウトと鍵の返却を確認し、あとは乗り込むだけだ。しかしここからが難関だ。まず、佐々木様のリュックサックを預かり、待ち構えていたドライバーさんへ託し佐々木様のバス座席へ。そして、いざ、佐々木様とバス乗車へ。佐々木様の歩幅は5センチ程度。倒れたときすぐに支えられるように手を腰あたりにかざす。そこからは5分ほどかかってバスに着いた。なぜか、バス車内からは拍手が起こる。
先にバスに乗り込んでいるお客様は、ホテルロビーから杖をつきながら小さな歩幅で頑張ってバスまで歩いている佐々木様に対して温かい気持ちになったのだろう。そう思ってくださること自体はとてもありがたいのだが、
「いやいや、佐々木様がもう少し早くスタンバイしてくれていたら、時間通り出発できたし。。。」と心の中で拍手の意味を打ち消す。

「あ、今日は一番前の席ね。昨日は、2番目の右側で、奥野さんて方の隣だったからね。私の前の席の方は熊谷さんていう方だったけど、熊谷さんは今日は後ろの席ね。」と、昨日のバス座席が頭に入っていた。「この方。。。、85歳なのに、すごく頭はしっかりされているなあ。私より記憶力がいい!すごいなあ。」
バスは少し遅れたが無事に出発できた。
それにしても、佐々木様の頭のあのキレ具合。昨日まで気づかなかったけどすごいなあ、と思いながらすぐ後の席だった私は声をかける。「佐々木様、すごく記憶力が良いんですね。先程のホテルの精算といい、バスの昨日の他の方の座席まで覚えてらしたし。」「まだ私、現役だからね。あははは。」
「お仕事されているんですね、すごいですね。何系のお仕事なんですか?」
「法律事務所ね」
「すごいですね、事務か何か?」またもや首をゆっくり横に降る。「本人です。」
「本人、、、。え!?弁護士事務所の弁護士の先生なんですか!?」
ゆっくり縦に首を振る。
なんと、85歳の現役の弁護士先生だったのだ。
「いやいや、法律の前に、時間守らんか〜い!」と心の中でツッコミつつ、バスは雪景色のホテルを後に、都会へと戻っていった。

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