遠回りは近道。「ひとつになる」プロセスがもたらした人の進化
動物には個体の能力差が人間ほどにはない。
鶯はどの鶯も「ホーホケキョ」と鳴き、
どんな猿だって木に登るのが得意、どんなチーターだって俊足だ。
それは常に体構造に沿った動きしかできないからで、
彼らはいつ、どんな状況にあっても体を一つにまとめて動くことができる。
それに対して、人間は二足歩行し始めて以来、体構造からは自由になったが、個体の能力差ができ、得意不得意ができた。
それはしかし、集団生活には適していた。様々な役割をみんなで分担することにより連帯感が高まり、生存率が飛躍的に上がった。
また差異ができることにより、優れた高度な技を有する人間が尊敬され、
技を賞賛し、美を感じる心につながった。
そして秩序あるものを美しいと感じ、それが快さ、安心感、幸福感につながる精神構造が出来上がった。
個人ならば「一つになる」「一つにまとまる」、集団ならば「みんなが一つになって目標を達成する」ことが、動物なら難なく手に入るのに対し、人はそれを手に入れるために多大なる労力と努力、時間を要することになった。
それは日本人のいう「道」や「型」に当たるものである。
二足歩行により人間はわざわざ不便を生み出し、その解消の過程を工夫することにより生きる快を感じ、文化を創り出してきた。そのような遠回りが、他の動物にはみられない独自の進化をもたらした。
一方で近代化は、道具を進化させることにより「一つになる」ことをより効率的に実現してきた過程である。
それは「道」や「型」などのプロセスをざっくり省くことであり、究極「誰もが簡単に」一つになれることを意味している。
そもそも「一つになる」ためには、プロセスがなければ意味がない。人の進化には、先述のように結果より過程に大きな特徴があったし、過程をわざわざ生み出して試行錯誤するところにその独自性や創造性があったのだ。
プロセスを経ない統合は均質化し、差異がなくなり、究極四つ足動物に戻ることになるとも言える。
人類が生き延びていくには、二足歩行に至った祖先の感覚に立ち戻り、近代が打ち捨ててきた「一つになるためのプロセス」を見直す必要があるのではないだろうか。
リアルな身体を十全に使うことによってプロセスを味わい、再構築することが大きなテーマにならなければ、「一つになる」ことは人類が自滅するための呪文にしかならないのではないか。
その過程で、AIをどう使えばいいか、労働力人口の減少にどう対処すべきか等は、自ずと見えてくるように思う。
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