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今日の一言!〜「意地汚い」と「意地悪」から、日本文化の根っこについて考えてみた〜

冒頭からあまり気持ちの良くない言葉を羅列してしまって恐縮だけど、
この間の次女と長男との会話から出てきた言葉である。

「意地汚い」の意味と用法

「意地汚い」を辞書で調べてみると、

[形]飲食物や金銭・品物などを欲しがる気持ちが強い。「―・くまだ食べている」「このうえピンはねをするとは―・い」

デジタル大辞泉より

「意地悪」の意味と用法

それに対して「意地悪」の意味は

[名・形動]わざと人を困らせたり、つらく当たったりすること。また、そのさまや、そういう人。「―を言う」「―な性格」

デジタル大辞泉より

そこで、「意地」とは何ぞや?という話になった。

気だて。心根。根性。「―が悪い」
自分の思うことを無理に押し通そうとする心。「―を通す」「―を折る」
物をむやみにほしがる気持ち。特に、食べ物に執着する心。「―が汚い」「食い―」
句作上の心の働き。

デジタル大辞泉より

4以外は、概してあまり気持ちの良い意味には使われていないような印象。

ちなみに、古語では

①気だて。こころね。
②自分の主張を押し通そうとする性質。我(が)。
③連歌(れんが)で、歌人としての心のはたらき。

学研全訳古語辞典より

今とあまり大きな差はなさそうな。だったら、「意地」は元々何を表す言葉だったのだろう。と思って調べてみると

「意地」は、仏教で「心の持ちよう」「気性」を意味する。
「意地」に「悪い」がついた「意地悪」は、気性が悪い意味の「意地悪い」という形容詞からできた言葉で、逆に「意地が良い」という言葉も存在した。やがて「意地」と「悪い」の結びつきが強まっていき、それに伴って「意地悪」は他人との関わりに重点が移った言葉となった。

語源由来辞典より

元々は良い意味でも使われていたらしい。
「意地が良い」は「気立がいい」などに置き換わっていったのかもしれない、とふと思った。

「意地」と「意志」


ちなみに、森本哲郎氏は『日本語 表と裏』で、「意地」と「意志」の違いについて書かれている。

なるほど、面白い考察だと思った。

森本氏の主張である「意志」とは個人のもの、「意地」とは属している社会や集団の規範のようなものという考えは大変興味深い。

日本文化の根幹

話を戻して、ここで先ほどもあげた「意地が良い」が「気立がいい」などに変わっていったのではないかという推論について、私の勝手な持論を話してみたい。

日本人は古来、「操作願望」というものをとことん嫌い、「自然とそうなる」現象を大切にしてきた。

能や茶道、俳句から伝統工芸品まで、まさに「自然」を大切にし、作為を徹底的に排除した上で成り立っている技芸だといえる。

(と、わりに頻繁にそんなことを書いてきている気がする。こちらにも触れています)

そんな中、「意地」や「我」はあまり気持ちの良い言葉ではなかったのかもしれない。

そもそも、仏教用語として入ってきた当初は「心のありよう」と言う状態を示す言葉だった。

「心のありよう」は、単なる状態であり、そこには良いも悪いもない。
しかし、例えばそれを「心を使う」といったように、能動的に使用した途端、作為を嫌う日本人には、違和感を覚えずにはいられなかったのではないだろうか。

そう考えると、「悪い」や「汚い」などマイナスの言葉と共に、悪い意味だけが残っていったのは何となく想像できる。

「気立がいい」

あくまでも推論の域を出ないが、それに対して、「意地が良い」は「気立がいい」とか「気が優しい」とか「気働きがいい」など、「気」という言葉に置き換えられていったのではないだろうか。

そう考えると、「意地」は「こうしたい」「ああしよう」といった意志に通じるが、「気」というものは、意志とは無関係のもの、その人の状態や雰囲気などの目に見えない感覚的なもので、その人が自分の意思でどうにかできるものではないという言い方もできる。

「意地」をめぐる顛末

「意地汚い」「意地悪」からずいぶん遠くまできてしまったけれど、また子供たちの一言で、思考を巡らせることができた。一文にもならなくても、こういう日常のふとしたきっかけって大事だとつくづく思う。


この「意地」をめぐる話、実際のオチはこんな風だった。

次女曰く、「『意地汚い』は、つまり掃除すれば意地は綺麗になるんだよね。だったらそれは一時的なものであって、改善可能だし、根本的な問題じゃないよね。」と。

それに対し、『意地悪』は、そもそも、性根が悪いというようなイメージがある。持って生まれた根性ともいうべきか。

そこで反論する長男。
曰く「でも、『汚い』は掃除すれば綺麗になるんなら、『悪い』も改善すればよくなるんじゃないの?」

なるほど、確かにそうとも言うかも。

いずれにせよ、少なくとも彼らにとっては、言葉でレッテルを貼られたとしても、そんなものはいつだって映り変われる余地があるし、そういった予測不能な物を含んだものが言葉であるという見方なのだろう。

決めつけない、思い込まない。善悪といった二元論で考えない。

彼らとのやりとりから、そんなことを学んだ母でした。









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