絵と音楽と文章と障がいと
ふと思ったこと。
絵や音楽を自分が演る方でも楽しんでる私が、
未来言語とかで障がいを持つ人とコミュニケーションする取り組みをしているのが面白いなって。
目が見えなきゃわからない絵と、
耳が聴こえなきゃわからない音楽。
知的なハンデを持ってる人は、人の気持ちを汲んだり自分の気持ちを伝えることが苦手だけど、
仕事で第三者の言葉を、文章を書いたり読んだり編んだりすることで人に伝えるお仕事をしてる。
仕事でもっと文章とか言葉にちゃんと知識がほしくて、今までに触れなかった本を読むことが増えた。
よく考えたら、本って視覚も聴覚もない状態じゃない?って。
読んでるから物理的な視覚じゃないけど(点字でももちろんいいし)、そこには映像のような具体物が動いてるわけじゃない。
小説はストレートに言ってくれないから言葉の意味として簡単に筆者の意図を汲めない。
目も耳も、時には味覚も嗅覚も触覚もフルでイメージしながら読んでる時がある。
絵も音楽も同じ。受け取る方の想像力や読み取る力がすごく発揮される行為。
時には『私は悲しい』と言葉で伝える以上に、音楽や絵がそれをリアルに、スマートに伝えてくれることもある。
文章でも花が堕ちた描写や文間でそのことを伝えて来たり。
この前写真家の人とお話しして、なにを写真に映してるかとか、映像がどんどん勢力を増して来ている中、今写真に取り組む意味とか、
そういうことを話した時に『映像は漫画、小説は写真』なんてふと感じた。
(私は漫画も大好き。むしろそっちのが読んでる。)
いろいろなツールがあるけれど、いっそシンプルに、むしろ欠けてるくらいの状態になった時に、すごくこっち側(人間)の力が発揮されるんだなぁって。
ちょっと内容が自分の理解できる範疇を超えると『??意味わからん??』って私もなるけど、
そこを『わかってない』と断絶するんじゃなくて、仲介する存在になれたらいいなって思った。
そうなると、、
障がいを乗り越えるじゃなくて、
障がいを楽しむ、かもしれないなって。
心から楽しんだら、それは『障がい』から別の言葉/表現になるような気がする。
もっと向上、もっと効率、もっと便利に、もっともっと…って必死になってたけど、
どんどん引いていくことも、すごく面白いことにつながっていきそうだなって思った。