純潔を慕う
タイトルは羽仁もと子著作集の「思想しつつ 生活しつつ(中)」の最後にあるお話です。
純潔という言葉から、「自分の純度を高める」という高橋ナナさんの言葉を思い出しました。
自分に正直になる、本気で生きる、自分に嘘をつかない、という意味で言っていました。
そこで思い出したことがある。
小4になる次女は最近、同級生と大勢で遊ぶことが多い。
3年生の時は、特定の仲の良い子と、誘われた時にだけ遊んでいた。
誘われなかったら、遊ぶことはないけど、
それだったら交友関係広がらないから、「自分からも誘ったら」と言っても、誘われなかったら誘われなかったで、自分で遊んでいた。姉妹で遊んだり、ピアノをしたり。
それはそれですごいなーと思っていた。
私だったら、「前は誘ってくれたのに、今日は違う子と遊ぶのか」とか、いつもの子が他の子といたら「私は誘われてない」と思う方だったから。でも、自分からは言えなかったり。
みんながグループになっていて、自分がそこに入れていないことに気付いたら、気持ちが焦る方だった。
誘われたら遊ぶけど、1人でもそれなりに楽しめる、そんな次女をすごいと思っていた。
でも、大勢と遊ぶようになったら、それはそれでちょっとした意地悪もあったりする。
2年生の時も、おにごっこに誘われるものの、いつもおにをさせられるとか。
じゃんけんで勝っても、「やり直して」と言って、他の子が自分の納得いくまでじゃんけんして、結局おにをさせられたり。
思ってることを言えないところがあるので、それでいやな思いをしたり、損な役回りになったりしないかと思っていた。
それは、私が思っていることを言えないから。
私に似てしまって、思ってることを言えなくなり、いやな思いをしたらいやだなと思ってた。
私がいやな思いをする以上に、子どもがいやな思いをするのはいやなのだ。
こんなこともあった。
幼児期に、「言いたい人は手を挙げてください」と言われ、手を挙げて当たったものの、そこから声を発さなかった。
言うつもりはあったのに、いざとなると言えないのだろう。
その時に、先生は1分くらい待ってくれた。見てる親の方には長ーい時間に感じられた。
それでも急かされることなく、待ってもらう経験は子ども以上に私が感動したし、ありがたかった。
長い沈黙の後、次女は発表をした。
最近よく誘ってくれる子が、次女に手紙を書いていた。
「いじめられることある?私はいつもいじめられてるけど、○○(次女)といると楽しい」と。
うれしいこと書いてくれるなーと思ったけど。
そう書いてた子が、最近おにごっこで次女ばかり狙って来たそう。
次女いわく、「自分の方がいじめて来てるやん。人のこと言われへん」と。
それが、昨日は友達に言ったらしい。
「1人狙いせんといて!」と。
ふだん、あまり大きな声で主張する子ではないから、周りにいた子もちょっと注目してたらしい。
そう言ったという話を家で聞いて、うれしかった。
次女が自分の思いを言えて。
ちょうど最近、私も、思いを言うことがあった。
今は仕事はしていなくて、空いている時間にちょっとした家でできるバイトをしている。オンラインで面談の仕事をしているのだけど、先日30分かかってあれこれしても、相手の都合で面談ができないということがあった。委託業務というものは、仕事を完遂しないと委託料が発生しないもので、私はその日、そのために下準備をし、その日体を空けたのにも関わらず、その仕事に対して請求できないという状況になってしまった。
いつもの私なら、これは誰が悪いというわけでもないし、仕方ない、お金のことは言いづらい、と我慢する方だった。でも、それまでにも相手のドタキャンなどで4,5回約束を反故にされることがあった。半日考えて、これで請求できないというのはきついということを雇用会社に伝えた。
お金のことはどうも言いづらいけど、「そこまで思い至らなかった。言ってくれてありがとう」と言って考えてもらえた。
やっぱり自分が我慢してどうこうしようとしてはいけない、そう思った出来事だった。
ということを、自分が所属している団体で、共通で読んでいる本の感想を言う時に言った。
話している途中で、「私みたいに、言いたいこと言えなくて、いやな思いしたらどうしよう」と言ったところで、
ある人が「え?」みたいになった。
私のことを、言いたいこと言ってると思ったようだ。
私のセルフイメージは、「人の目を気にして、思っていることが言えない」だったけど、その人はそうは思っていないようだった。
会社にいた時、ものすごく仕事量が多かったり、インド関係ですごくトラブルが多かった時、「1人でできる量じゃない」など小さな会社なので、社長に直接言ったことがあった。アシスタントをつけてほしいくらいだったのだ。その会社は営業が1人で商店を抱えて何でもやるみたいな状態でした。でも言っても、「みんなやってる」と言われるだけで、我慢しろと言われているようでした。話しても通じないと思った時、私はもう言わない。言っても分からない人に言っても仕方ないと考えます。
所属してるその団体で、私が思うことを言ってるように見えるなら、それはその場が受け入れてくれる、考えてくれる土壌があるから。
聞いてくれない場と思う時、私は意見を言わないのだ。
そしてそういう場は、そこにいる者に我慢をさせても、いつまでもは続かない。そういう場からは人はいつか去る。
私は人に、「意見をはっきりいう人」「ずけずけ言う人」と思われたくなかったんだ。
でも、今まで「いい人」と思われたくて、忖度して自分がしんどくなることがあった。
私は言えない人でもなかった。
もともと意見は言う人だった。
でも、押し込まれて、言えなくなっていたのだ。
意見を言うのは、主張が激しいわけじゃなくて、反抗してるわけじゃなくて、そこの場を信頼しているから。分かってくれると思うから話してたんだ。そういう場にいることがありがたいなと思う。
でも、「純潔を慕う」はもうちょっと違う内容かも。
少し話が逸れたけど、私の今の思い。