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私にとっての子育て振り返り

もしも私が死んだ後にnoteを読まれることになったとしよう。息子か又は娘がこのnoteを読んだとして、親としてではなく、一人の人間として「私」のことを知ってくれればいいかなと思う。

子育て

「子育て」と言う程、教科書どうりにできた自信は全然ない。長女の時はもちろん何もかも初めての事で、「不眠」「脱毛」「孤独」「精神不安定」などを経験した。私がいないと存在できない不確かな命を前に、泣きながら我が子をあやした夜は何度となくある。その度に、受け継がれた命のひとつひとつに、「母親」という存在があることを改めて感じた。
現代の社会では、「父親」を含めた形で子育ての主語を「親」と表現するのが正しいのだろう。ただ当時の男性の多くは「子育て」の外にいる存在だと思っていた。今多くの夫婦が共働きを選択し、ともに家事育児を頑張る姿は理想的だし素敵だと思う。それでも、どちらがいい悪いではない。
時代が変われば、家族や夫婦の在り方、役割や、夫婦間の認識も全然違ったものになるのだなと思う。
これって「時代ガチャ」とか言うのかもしれない、
ただどんな時代だとしても、その時代にしかない常識や仕組みに抗って生きることは相当難しい。

「三つ子の魂百まで」という諺は、呪いだなと思う。この時期の子供は言葉で説得してなんとかなる存在ではない。もはや小さな怪獣。側から見るとその光景は微笑ましく映るだろう。私もこの歳になって、この年代の子供を見る度に微笑ましいと思うし、自分の子育てを思い出して懐かしい気持ちになるのだ。でもど真ん中にいるときにそんな余裕はない。必死に教えようとする何かを理解せず、ただ泣き喚く子を前に途方に暮れた。それでも二人目を産んだ後、多くの母親がそうであるように「二度目の子育て」に慣れる。上手に手を抜き、心を休め、この小さな怪獣を可愛いと思えるようになってくる。明日は子供と何して遊ぼうか?そんな風に1日を終えた。
同時に、長女の子育てがいかに未熟であったかを思い知った。もしやり直せたらもう少し違う子育て期を過ごせそうな気がする。私も長女だけど、長女には時々謝ってみたりする。息子には、「ちょっと手抜きしてごめん」と謝るのだが。

帝王切開

私の二人の出産はどちらも帝王切開だった。産道を通さず子供を産むことに抵抗のある母親、又は帝王切開による出産を「楽」をしたと思うような考え方がある。これに悩む母親も確かにいた。私は楽天的な人間なので、そのどちらにも心を悩ますことはなかったが、そもそも子育ては100人の母親全て全部違う。これから出産するプレママがいたら、「今後しばらくこのネタで生きていけるので頑張って」と言う。それほどに「出産」は100人100色。何が大変で何が楽だったかは人によって全然違うので気にすることは全くないです。
楽しむ、というには結構過酷だし、大変だというほどにはそうでもないとそのうち思えるようになる。あんなに痛かったはずのに、自分の命と代えられそうな(実際代えてないので過程として)愛しさを胸に抱くと、こうも感じ方が変わるのかと我ながら感心した。

母親について

出産子育てを通じ、私の母親に対する認識が変わった。私の母も、友達のお母さんも、みんなこんな壮絶な体験をしたんだなと、当たり前のことなのに初めて知ったような気持ちになった。この時まで私は母親のことを母親としてしか認識していなかったのだと思う。私が私の人生を生きているように、母個人の人生について新しい視点を手に入れた、そんな感じ。
母は私が小一の頃から仕事を持っていた。当時にしてはとても稀有な存在。友達のお母さんの多くは家にいて、帰宅すると手作りのおやつを用意して待っている。でも私はお化粧をして車を運転し、仕事に出かける母親が好きだった。靴箱には編み上げのブーツやハイヒールが並んでいた。関東近郊とはいえ珍しかったのでないかと今でも思う。そんなキャリアウーマンの母は、仕事をしながら家事もきちんとこなしていた。祖母が全盲で全面的な家事を担うことができなかったからだ。今思うと相当パワフルな母親だと思う。

大好きな母だったが、大嫌いなところもあった。父親に対する態度だ。
二人はよく喧嘩をし、母は私に父の悪口を言った。喧嘩はある日突然起き、その凄まじさに布団の中で震えた夜は何度もある。大袈裟ではなく本気で恐怖だったし、その時感じた恐怖はこの後の私の人生の一部を決めてしまった。
子供にとって親の喧嘩はトラウマになる。絶対。どんな言い訳をしても、子供に与える影響は計り知れない。喧嘩したかったらどこか他所で盛大にやったらいい。子供の前で喧嘩する親の人間性を私は疑うし、軽蔑している。
今こういう親のことも「毒親」と言うそうだ。
ただ私は自分の親を「毒親」とは思っていない。相当優秀な「反面教師」だったと思っている。

そんなわけで、私は怯えながら過ごした布団の中で、「もし親になる日が来たら、夫の悪口は言わない、子供の前で喧嘩しない」と誓いを立てた。
子供というのは大人が思うほど幼い生き物ではない。私がそうであったように、親の姿を見て何かを必ず学んでいると思う。良くも悪くも。
子育ては親の背中を見せる事だ。子供時代に形成した母親像、父親像は、必ずこの後の人生を大きく左右するだろう。

ではこの事を自分の子育てに活かせたかというと、全く活かせていない。
私は「反面教師」の両親を見て、布団の中で誓いを立てたことを実行した。
自分に課した掟のようなもので、どんな時も夫の悪口を言わなかったし、喧嘩もしなかった。実際は、多くのことを我慢し、その逆もあったかもしれない。(自分の我慢は確定としていえるが、相手に対しては想像でしかないこので)
けれど、私の子育ては失敗したと思う。大方うまくやったけど、ここ一番という時に大失敗している気がする。コツコツドカン!
ちなみに子供たちの成長が失敗だとは思っていない。
子供たちは私の「子育て」を粗悪に感じたことがあるだろう。そして、私の意に反する内容で理解し、私の失敗する姿から何かを学んだことだろう。反面教師は子供に強い影響を与える。私がした子育てもきっと「反面教師」だ。









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