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私の子供の頃の(母は看護師)夏休みの昼ごはん
私の母は看護師だった。
私の子供の頃は看護婦とよんでいた。
母は看護婦の中でも婦長だった。
いつもいつも忙しそうだった。
家の中でも病院の中でもバタバタ走り回っていた感じがする。
学校の参観日には父が来ると決まっていた。
入学式と卒業式だけは母が来てくれた。
母は夕方6時半頃帰ってきて、30分くらいで夕飯を作っていたような気がする。
そして食べ終わったら私と姉で食器洗い、食器片付け。食器だけじゃなくて、シンクも洗いなさいとよく言われたものだった。
母は、夜勤の日も1ヶ月に何回かはあって、そういう日は、小学生だった私と姉で買い物に行って夕飯を作ることになっていた。
私たちは、いつもカレーを作っていた。
母が何か作り置きのおかずを作っておいてもよさそうなものだったのではないかと今になっては思うが、その頃はそんな事も考えさえしなかった。
母は仕事で病院に泊まり。だからご飯は私たちで何とかする。それはごくごく普通で自然だった。
当然、夏休みのお昼ごはんを母が作っておいてくれるはずもなく、私たちで何とかして食べることになる。
ある年は毎日朝ご飯の残りご飯に祖母が漬けた奈良漬のお茶漬けを夏休み中毎日食べた。
その昼食を何とも思わなかった。母にも不満は一切なかった。
夏休みは、掃除のお手伝いが増えた。姉から指示されながら掃除をしていた。
ある年は近くのバス停のお店のパンを毎日買いに行った。
午前11時頃にパン屋さんのトラックが来て、パンのケースが重ねられてゆく。
お店のおばちゃんがガラスケースに並べる前に私と姉はケースからパンを選んで買っていた。
その年は毎日同じパンを食べ続けた。
栄養が偏っているとかそんな事は私も姉も母も誰も思っていなかった。
そんな毎日でも普通に幸せな夏休みだった。
母はいつも忙しくて甘えることはできなかった。
母が一緒に遊んでくれることなんてなかった。
母が夏休みの宿題を一緒にやってくれることはなかった。
でもそれは私にとってはごくごく普通のことだった。
あの頃は新聞代やその他、家に集金の人が訪ねて来ていて、私が出ると
「おかあさんは?」
と誰もが聞いてきて
「いません。」
というと、帰ってしまう。
いやいや、帰らないで、いつもいないんです。
「あっ、待ってください。払いますから。」
私は集金の人を引き止めて支払っていた。
家の財布というものがあって、お金が入っでいて、それで支払いをすることになっていた。
その財布からお菓子を買うことはなかった。
今思えば、少しくらいお菓子くらい買ってもよかったなと思う。
私は小学生の時の夏休み、毎日奈良漬のお茶漬けだけを食べていたことを夏になると思い出す。
母は私と姉にごくごく自然に料理を作ることや家事をすることを教えたかったのかもしれないとこんな歳を重ねた今やっと思うことができる。