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キオクノート#6 また今度

2つ星レストラン「ラバスティードサンタントワンヌ」での南仏生活が始まって、日々の業務と調理場での動きとフランス語に慣れた頃には、ルームメイトはぼくをいれて3人になっていました。

この頃から帰国するまで一番お世話になったのが日本人の「ショーゾーさん」。

同じ兵庫県の出身で気さくで優しい関西弁は心にゆとりと安心を与えてくれる、キャリアもぼくよりも大分とあって、日本では某有名ホテル勤務だったそうだ、日本での就職において店を決めかねていたぼくはかなりいろいろな突っ込んだことを質問した。

そう、研修も半分を切ったこの頃から無性に日本を意識するようになってきていた。

わがままな仕事ぶりのフランス人たちにうんざりし、実はぼくも部署がポワソン=魚担当に異動になっていたのだが、そこのコミ=見習いたちはろくに魚もさばけないやつらで、日本人として魚をおろすのには自身があったぼくが教えてもいっこうに上達しない。

好意で教えているのに部門シェフからぼくのせいにされたりして、理不尽な対応にホント早く日本に帰りたくなっていたんです。

余計なフランス語のスラングだけはいっちょ前にスラスラ喋るようになっていて、何度も仕事中に同僚フランス人と喧嘩した、そしてまた部門シェフを怒らせるという悪循環、これはきつかったな。

非常に毎日忙しく、しんどい仕事だったがフランスのレストランではクリスマスは休みで、他の日本人や若手のフランス人も交えてクリスマスパーティをしました。

日本人のぼくたちは厨房からクリスマスっぽい食材をもらえたので、ぼくの宿舎でサーモンやチキンやオイスターなどを味わい盛り上がった良い夜。

逆に年越しは営業で、カウントダウンもレストランでおこなう、後数分で新年というときに、厨房スタッフは鍋とおたまを手に叩きながら客席を音楽に合わせて練り歩くという独特なものだったが、席は満席でこの時はじめてフロアの隅々まで歩いて、自分が働いているレストランの凄さを再認識したりしました。

もう残りも1ヶ月という頃には日本語の活字が恋しくて恋しくてもう小説でもエッセイでも日本の書籍が読みたくなり、南仏には売っていないのでパリにあったジュンク堂まで飛行機に乗って買いに行ったりもしました。

仕事とフランス語はひととおり身にはついたカタチだが、今思い返せばまだまだ若かったということだ、ただ帰国後も何度もフランスに訪れているが、もう一度働きたいと思ったことは一度もない。

わがまま仕事はうんざりだし、仕事というより滞在というスタイルが自分にあっていると気づいたからです。

ただ、この考えも日本で働きだしてすぐに甘かったと打ち砕かれることになる。

もう研修も終盤、ぼくの誕生日は日本では当時、成人の日でした。

フランスで20歳を迎えたぼくは当然成人式にも出席していないのだが、ショーゾーさんが誕生日と成人と研修修了をまとめてお祝いしてくれたのははっきりと覚えている嬉しい思い出。

レストランの休業日にショーゾーさんの運転する車で食材を買いに行き、ワインショップにもよって人生最初のワインを選んでくれた。

そのとき一緒に飲んだコルトン・シャルルマーニュのコルクは少しボロくなったが今でもぼくの包丁ケースの中のお守りになっている。

ラバスティードサンタントワンヌの厨房では研修最終日に伝統の卒業の儀式が行われる。

儀式と言っても卒業するぼくが床流しのついでに問答無用でずぶ濡れにされるという、今ならパワハラ極まりない儀式なんだが、このときは立場の上下関係なく水をかけあって笑いあった。

シェフのジャックシボワ氏は最後まで孤高の存在だったが、最後には一緒に写真を撮ろうとか、日本に興味があるから色々教えてくれとかたくさん話してくれた。

厨房ではキレまくって怒鳴りまくってたシェフだったが、今の時代みたいに携帯もsnsもないので、今ではもう忘れてしまっただろうなぁ、親や家族を一度は連れていきたいと思っているぼくの原点だが、それはまだまだ先になりそう。

写真をみているだけでもココで良かったと思えてくる実に南仏らしいレストラン。

日本から送ってもらった日本らしいお土産をお世話になったお礼にみんなにくばり、いつもの営業終了のあいさつ「また明日」ではなく、「また今度な」でお別れしました。

そして、フランス各地に散った研修生たちはまた一時、調理師学校に集合するのです。


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羽山智基
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