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暮らすまちを考える雑記

距離的に大げさなことはないのですが、生まれ育った所沢から狭山市の北入曽に引っ越してきて1年と少しが経ちました。単身おじさんのボロマンション暮らしでは地域にコミットする機会もなく孤独な日々を送っております。言い訳をしておきますと、決して不幸で人生を悲観しているわけではありません。本当です(笑)

私が働く堀兼の農家も同僚は悪い人はまったくいないのですが、もれなく親と子くらいの年齢差なので友人のようなプライベートで関わるような間柄にはなっていません。近所で唯一といっていいほど仲良くなったのは近くの農家の年齢の近い2人くらいのもの。先日うかがった入曽駅近くの蕎麦屋に集まる人々が有機無農薬思考なので栽培関係では方向性が近く、元々インスタグラムで繋がっていたりとすぐに打ち解け、地域の交流を店として設けていきたいという話なので私にとっても良い居場所になるかもしれません。

とはいえ、狭山市内での交流というとそのくらいのもので、特に狭山に愛着を持つようなきっかけはあまりなく、むしろどのようにして自分の暮らす土地に愛着を持てるのだろうと疑問を持ったりしています。生まれ育った所沢の荒幡や山口地区へ愛着があるかというと、思い出というかノスタルジーのようなものは確実にあります。結局は人との関わりの中でしか愛着、郷土愛は生まれないのでしょうか。私も所沢でゴミ拾いや散策会、イベントなどを主催していましたが、結局は荒幡や山口、久米くらいにしか思い入れはないので、所沢という大きな箱を舞台にアクションが出来ているフェイスブックでかろうじて繋がっている方々を見てパワフルだなと思います。

どんな場所で生き、死んでいきたいのか。


そろそろ50歳も見えてきて膝がガクガクするような恐怖に慄く状態でありますが、終わりが近づいてきたという事実はどうあがいても翻りません。結局自分自身が何をしたいかというと、豊かな畑、自然環境の中で生き、死んでいきたいのです。借りている畑はわりと自由にはやらせてもらっているのですが、草刈りをされたり除草剤がふられたりすると憂鬱な心持ちになってしまいます。放っておいてくれというわけにもいきませんし、放っておいてくれる理想郷が日本にあるのかも分かりませんが、今住んでいる場所の環境を変えていくよりは、少しでも良い環境に移っていくほうがストレスも余計なパワーを使わなくていいのかもしれません。

そんなわけで終の棲家、人生を終える場所、というと大げさですが移り住む先を探しており、頭にあるのはやはり有機栽培が盛んな小川町周辺がいいのではないかと思ったり、良さそうな土地だと感じたのは東秩父村や飯能市の吾野だったなと思い出したりと色々考えつつ、安い物件はないかと探すのが趣味になっている今日このごろでごさいます。

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