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現代の名字と古代の氏姓の関係を論ずるためにはまず基礎研究が必須ではないか?
古田史学の会代表の古賀達也さん(本当は「先生」呼びしたいところであるが、会において「先生」呼びを控えるように指導されている)のFacebookに次のような文章があった。
更に、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から度々ご指摘いただいてきたことですが、古代の物部氏の分布を現代の名まえで検索・調査するのであれば、物部姓から他の姓に代わった人々の分布も同時に調査すべきという点についても、その重要性が今回の物部さんと杉さんの分布調査から浮かび上がってきました。これからは日野さんの指摘に留意して、物部姓の調査を進めたいと考えています。(太字、引用者)
しかし、私は古賀代表に一度も「物部姓から他の姓に代わった人々の分布も同時に調査すべき」と言った覚えはない(この後、古賀さんから訂正の連絡がありました。感謝申し上げます。)。
無論、細かい表現の違いは「言葉の綾」ではあるものの、古賀代表はコメント欄でこの言葉の意味を次のように用いたと述べられている。
今回の文はご指摘のように「「物部」と言う名字の方が別の名字になったと言う意味」で使用しました。
これだと私が言っていることと全く内容の違う発言が「日野の言葉」として記されていることになってしまう。「細かい表現の違い」と言うレベルではない。
これについては私もコメント欄で長々と議論してしまったが、これは古賀さんに対しても失礼であるのみならず、第三者からすると何を言っているのか、さっぱり判らないこととなるだろう。既にここまでの文章で「一体、日野は何を言いたいのだ」と思われている方もいるはずだ。
また、古賀さんは古代史についても近世文書についても知識がある方であるが(「和田家文書」偽書疑惑事件で実際に近世文書に目を通された経験がある)、そうでは無い方にとっては私と古賀さんの議論の「前提」をご存知ない方もおられるであろう。
そのような方にも私の発言の真意をご理解いただくため、今回敢えて基礎知識から説明をさせていただきたい。
多義性のある「氏」と「姓」
まず、「氏」と「姓」という言葉の意味から説明させていただきたい。
「氏」と「姓」はそれぞれ別の意味の言葉であると同時に、それぞれ多義性を有しており、従って論者にとって「氏」と「姓」の定義が全く異なることが起こり得る。
本来、「氏」とは「氏族(clan)」の名前である。「氏族」の下位分類として「宗族(lineage)」があり、氏族は複数の宗族を包括する概念である。
対して「姓」は上代中国においては「複数の氏族」を包括する単位の名称であった。ここでは「氏族」の上位単位を仮に「部族(tribe)」としておく。
姓と氏の区別は古代中国において既に曖昧であった。『史記』によると秦の王家はまず舜から「嬴」という姓を授けられた。これは神話時代のことである。次に周王朝の時代に一族が趙に封じられたので「趙」を姓とした。だが、秦が建国された後も秦非子が「秦嬴」と号しており、「嬴」の姓が用いられなくなったわけでは無い。一般に歴史学界では「氏」が「趙」で「姓」が「嬴」であると解釈されているようである。
なお、「妲己」の「姓」は「己」であるとされており、この当時は「氏」は名前の先に書いていたが、「姓」は寧ろ後に表記していたようである。だから「秦嬴」と言うような表記も存在している。
司馬遷は『史記』においてこのことを次のように纏めている。
秦の先は嬴を姓と為す。その後分かれて封國を以て姓と為す。徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黃氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏有り。然し秦はその先の造父が趙城に封するを以て、趙氏と為す。
つまり、司馬遷はここで「姓」を「氏の上位単位」の場合と「氏と同義」の二種類の意味で用いている。この時点で既に姓には「部族の名称」と「氏族の名称」という二つの意味が存在していた。
古代日本では「氏」は「うじ」と呼ばれる「氏族(clan)」の名称であった。これは中国と同じ用例である。
ところが、律令国家体制において「姓」は「かばね」と呼ばれる「氏族間の序列」を表すものとなった。
具体的には「真人」「朝臣」「宿禰」「臣」「連」等である。これらは氏族の名称の後につける(例;「藤原朝臣」「出雲臣」)。これらは古代中国には無い用例である。
無論、中国と同じように「氏族の名称」と言う意味で「姓」を用いる者もいた。従って、古代日本においては
「氏」=氏族の名称
と言う用例は確定していたが、「姓」については
①「姓」=氏族間の序列(かばね)
②「姓」=氏族の名称(「氏」と同義)
という2通りの用例があり、さらに
③「姓」=「氏」と「かばね」を合わせたもの
とするような用例もあった。
①②③のいずれも公文書での用例があるので、これらは誤用ではない。
一方、中世以降になると「家名」を世襲するようになった。そこで誕生したのが「名字」であり、
「名字」=家の名称
であったのだが、「名字」を「姓」や「氏」の意味で用いる「誤用」も存在した。そのため、「氏族の名称」の方は特に「本姓」と呼んで名字と区別した。
だが、「氏」については明治維新後に「姓を廃止して名字を氏とする」ことが決定されたため、結果的に
①「氏」=氏族の名称(本姓)
②「氏」=家族の名称(名字)
と言う、二種類の用例が生まれることとなり、今の法律では②の意味で用いられているが、明治維新以前は①の方が法律用語としては正しいと言うことになった。
この煩雑さを避けるため私は「本姓」と「名字」と言う風に使用しており、敢えて「氏」の使用を避けている。
なお、「姓」を「名字」とするのは誤用である。本来ならばこの種の誤用に目くじらを立てるべきでは無いのであるが、今では「戸籍婚における選択的夫婦別氏」においてこの誤用を意図的に利用しようとしている論者がいる上に、歴史学においては無用な混乱を生むだけであるため、①学問の政治的中立性を担保すると言う観点からも、②読者に無用の混乱を生まないと言う観点からも、歴史学における議論では「姓」=「名字」の用法をするべきではないと考える。
近世以前の「本姓」と「名字」の区別
系譜と言うのは多くが中世・近世にできたものである。従って、系譜を研究の対象とする際には、中世・近世の用例を前提にしないといけない。
江戸時代以前において「本姓」と「名字」は混同されることは無かったとされている。
苗字は、江戸時代において「苗字」「苗氏」「名字」などと表記し、一般にはこれを「姓」とか「氏」とも呼んでいた。呼称こそ混乱しているが、本姓と苗字のそれぞれは決して混同されることはない。本姓は名乗(引用者註:実名)に接続する。一方苗字は、いわゆる下の名前、つまり通称と接続して「名前」を構成する。用途が全く違うのである。
(尾崎秀和『氏名の誕生』74頁)
無論、このことを否定する研究があればそれを論証する論文を発表していただければよいのであるが、管見の限りそのような研究は存在しないし、古田学派においても古田武彦先生が秋田孝季の自署名について「安東孝季」と自署名があること(この場合、本姓は「安東」。なお「橘」を本姓と用いているケースもある)や「飽田孝季」という自署名もある(「秋田」の地名は「飽田」とも表記される)ことから、「秋田」は「秋田家の」という意味では無く「秋田の地の、在住の」と言う意味であると論証された(古田武彦「名代論」『なかった』第6号)。この古田先生の論証を覆す研究があったとは私は知らない。
なお、秋田孝季は「秋田」を家名として用いる際には「秋田次郎」と言う風に表記している。「和田家文書」偽作論者の原田実氏が「殿様と同じ名前である秋田孝季と言う名前で旅行すると大騒ぎになる」等と言う批判をしたことがあったが、当時の通行手形は実名ではなく通称で記されているので、彼が旅行する際には「孝季」ではなく「次郎」名義のはずである。逆にお殿様が「私は次郎である」等と名乗ることはあり得ないので、「秋田次郎」を名乗るものが旅行に来ても「お殿様が来た!」と大騒ぎになることはないであろう。
話を戻すと「呼称こそ混乱しているが、本姓と苗字のそれぞれは決して混同されることはない」のである。古代と現代の間には「本姓と名字が明確に区別されていた」時代があることを忘れてはならない。
「本姓」を「名字」とした人はどれぐらいいるのか?
以上のことを前提にすると、古代の本姓の分布を現代の名字で調べることは、大変危険であると言わざるを得ない。
例えば、私も古賀代表も「本姓」は「藤原」である。しかし「藤原」という「名字」の分布を調べても日野家も古賀家もその分布の中には載っていない。
それどころか、藤原氏の「宗家」とも言うべき「近衛家」「九条家」「一条家」「鷹司家」「二条家」も「除外」されてしまう。そのような「分布図」をどれほど調べても「古代の藤原氏の末裔」について見えてくることはないであろう。
或いは、「出雲臣」と言う氏族が存在する。出雲氏には「北島家」「千家家」「小野家」と言った家が存在し、これら旧華族の家が含まれない「出雲」という名字の分布を調べても「出雲王朝の痕跡」が見えてくるはずが無いこと、言うまでも無い。
今回、古賀代表は「物部氏」の分布を調べられた。だが、物部氏については私自身、古賀代表と一緒に「稲員家」の系譜を見たことがあり、彼の名字は「物部」では無い。
稲員家は「本姓は物部であるが、名字は物部ではない」ケースである。本姓と名字とが明確に区別されていた時代を経ている以上、このようなケースは決して少なくないと考えられる。そのようなケースを除外しての研究には瑕疵があるのではないか、と私は古賀代表に伝えたのである。
これは「名字が変化したケース」ではなく「本姓と名字とが異なるケース」である。
私は古賀代表の研究を無意味と言っているのではない。ただ、古賀代表の研究が意味を持つためには、
本姓をそのまま名字としたケースが名字の分布に影響を与える程度に多い
ということをまず論証する必要がある。ところが、私は古賀代表がそのような論証をしているのを見たことが無かったし、またそのような先行研究も提示されていなかった。
やや若造の分際で古賀代表に激しい批判を加えてしまった感はあるが、私は古賀代表の主張が間違いだと言いたいのではない。
例えば、今回古賀代表のコメントで知ったのであるが、「物部」と言う名字で稲員家とほぼ同じ系譜の家が存在していると言う。そうであるとすれば、それはまさに「本姓をそのまま名字としたケース」である。
ならばどうして古賀代表は最初から「本姓をそのまま名字としたケースも少なくない」と論証して下さらなかったのか。少なくとも古賀代表がその例を挙げて論文にしていれば、「このケースは名字の分布に影響を与える程度に多いだろう」とか「いや、このケースは例外であるからやはり名字の分布に大きな影響はない」と言った議論が出来たはずである。
この貴重な実例を教えてくださった古賀代表には感謝申し上げるが、そのような実例をご存知なのであれば、学問の発展のために論文にしていただきたかったのである。
言うまでも無いことであるが「名字をそのまま本姓にした例がある」からと言って「それが分布に影響を与えるほどに多い」とはならないし「名字が本姓とは異なる例」を除外してよい理由にもならない。
だからこそ、「実例」を挙げるだけではなく、それについての「論証」を行う必要があるはずである。古賀代表自身、「学問は実証よりも論証を重んじる」との古田先生の言葉を良く引用されている通りである。
本来ならば古賀代表に言う前に私が率先して研究するのが学問におけるマナーであろうが、私は古賀代表が実例を挙げた系譜を見ていないので、僭越ながら古賀代表に研究の先陣を切っていただくよう、お願いする次第である。
私は以前、赤染氏が赤染をそのまま名字としていることを不信としたことがあったが、古賀代表の挙げられた実例と同様の例であるならば、このような例は少なくないこととなり、本姓と名字の関係についての定説を覆す発見となる可能性がある。
念押しするが、私は古賀代表の仮説を否定するために本稿を書いたのではなく、その前提となる基礎研究の必要性を訴えるために本稿を書いた。読者の皆様も関心があれば私や古賀代表と共にこの研究に参加していただきたい。
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