大喜利が楽しめなくなったときの話
ないもの丈希です。実は4ヶ月ほど大喜利を休止しており、最近復帰しました。その時の大喜利に対する考えのようなものをここで書き連ねていきたいと思います。もし良ければお付き合いください。
大喜利が楽しめなくなった理由
そもそもなぜ大喜利が楽しめなくなったのかを簡潔に述べると、勝負の側面を意識しすぎて自分の心が持たなくなったというのがほとんどの理由です。大喜利を始めたばかりの頃は、「大喜利をする」という行為自体がそもそも新鮮で楽しいものでした。いわば楽しむためのハードルが極めて低い状態にあると思います。初めて生大喜利の大会に参加した時も、予選で敗退しましたがめちゃくちゃ楽しかったのを覚えています。しかし次第に回数を重ねていく内に大喜利をすることに慣れて、大喜利をすること自体が持っている楽しさを新鮮に感じることが難しくなり、自分は「何か結果が出てようやく楽しさを感じる」といった状態に陥りました。特に自分は地方勢なので遠征で大会に参加することが多かったのですが、「時間をかけて遠征してすぐに負けたら嫌だなぁ」という気持ちが徐々に歪みを持ちこのような考えに陥りやすかったのかなと思います。こうして大喜利を楽しむためのハードルが徐々に高くなっていき、最終的には「優勝以外意味がない」とまで思うようになり、ハードルを越える結果を永遠に出せず大喜利が辛くなっていきました。
自分のために大喜利をしている状態
少し話は変わるのですが、自分が考える大喜利の好きなポイントとして、「他者を笑わせたい」といういわばサービス的な側面を持っているという所があります。自分が始めのうちに大喜利に感じてた楽しさの中にはこの要素も多く含まれていました。しかし自分の意識が勝負に向くにつれ、大喜利に対して感じる楽しさがどんどん利己的になり、無意識のうちに大喜利が「自分の快楽を満たすためにやるもの」になってしまいました。自分が気持ちよくなるためだけに大喜利を使って他者を蹴落とす、極端にいえば殺人鬼のような心情で大喜利をしていた気がします。そこに他のプレイヤーや大喜利そのものに対する敬意が全くなく、この時の自分について深く反省しています。
自分の弱さ
また、勝負について強く意識するようになってから自分の弱さを直視する場面が多くなりました。そもそも大会というものが持つ性質上、「優勝以外は全て負け」というのが前提としてあり、この負けを直視しないようにできる人がまさに大喜利を楽しめてる人だと思います。勝負の意識が強くなっている自分にとっては、毎回この「負け」を直視してしまいます。簡単に言えば、勝負を意識すればするほど自分の弱さが間近で見えてくるといった状態です。この弱さを直視しないように、弱さと真逆の方向に走るためにがむしゃらに大会に参加してはまた負けて、元いた地点に戻るといった爆速のシャトルランのようなものを繰り返す内に、心がどんどんすり減っていって大喜利ができなくなったというのが結論です。自分にはまだ大した実力がないため、すぐに自分の限界に気づけましたが、割と定期的に優勝ができてしまうせいで、このシャトルランから抜け出せない実力者の方もいるのではないか、と少し考えています。
最後に
だらだらと自語りを書き連ねましたが、以上が大喜利ができなくなった主な理由です。特に関東では冠到杯や結果ログなど、自分の実力を可視化できるものが多くあるため(これらを批判している訳ではありません)、少なからず勝負の意識というのはどうしても生まれてしまうものではあると思います。みんなもこうならないように超気をつけてねっていう話でした!!今は殆ど回復したのでまたぼちぼちやろうと思います!ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。