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トプカプ宮殿博物館展[2024.12.8]
日比谷にある出光美術館でトプカプ宮殿の展示が催されていると知り、やってきた。とても良い展示だったので、記録として残しておく(撮影NGだったのが残念…)。展覧会の正式な名称は「トプカプ宮殿博物館・出光美術館所蔵 名宝の共演」。
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展覧会はトプカプ宮殿の宝物・中国の陶磁・日本の陶磁に加え、トルコのタイル・陶磁という4部構成からなっている。個人的には、とくに中国の陶磁に興味をそそられた。なぜなら、一年前に台湾の故宮博物館に行ったとき、たくさんの美しい陶磁器を目にしたのを思い出したから。
台湾にある故宮博物館によれば、陶磁器は文明の象徴である。
故宮博物館の展示と今回の展示を交えながら、中国の陶磁器産業を振り返ってみようと思う。
宋代(960−)には磁器の焼造が全国に広まり、特に南部では景徳鎮が窯場として知られるようになる。景徳鎮の白磁は青みがかった白だったようだ。
今回の展示では、元代(1279-1368)の青磁がほとんどだった。こうした鮮やかな染付の技法が発展した背景には、イスラーム圏からコバルト顔料が伝わったことが挙げられる。
明代(1368−)に入ると陶磁器は国家事業となり、景徳鎮は代表的な御用窯(官窯)になる。窯には政府から監督が遣わされて一定の品質と生産量が保たれるようになり、官窯の制度が確立された。とはいえ、明末には管理にゆるみが出て、作品もマンネリ化したようだ。民窯でも陶磁器を作っており、官窯とは品質や生産量、窯炉の規模や工房の運営方式も全く違っていた。
明末清初の混乱期にはこうした陶磁器の輸出が止まってしまう(1661年には清が遷界令なる海禁政策をとり、1683年に撤回されるまで続いた)。陶磁器を輸入できなくなったヨーロッパ諸国が代わりに目をつけたのが有田焼や伊万里焼に代表される肥前の陶磁器産業だった。朝鮮から連れてこられた李参平が有田焼の祖とされるのは有名は話である。当初、肥前の陶磁器は中国の陶磁器に及ばなかったが、技術改良を重ねることで輸出に耐える品質を確保したとのこと。
清代(1644-)は皇帝が陶磁器事業の主導権を握る。職人の待遇も改善し、康煕・雍正・乾隆の最盛期には最高級の官窯作品が生まれた。康煕帝の時代はトライアンドエラーを重ねたようだが、雍正・乾隆にかけて皇家専用のオリジナル作品となった。それ以後は官釜の監督や管理を地方に任せ、風格が徐々に薄れる。最盛期を過ぎると官釜の監督は地方に任せきりとなり、風格が徐々に薄れる。
こうして見ると、何百年もかけて陶磁器が一つの産業として発展・衰退を繰り返しながら文明と文明を繋いできたことがわかる。
とはいえ、今回の展覧会のメインどころはトプカプ宮殿の名宝。いずれトプカプ宮殿にも行ってみたいですね。